肉体・恋愛

2008/10/11

蕗谷虹児…花嫁人形幻想

鰭崎英朋…今こそ大正ロマン!」なる稿を書いたこともあってか、せっかくなので関係する人物を採り上げてみたくなった。
 今回は、もしかして忘れられているやもしれない蕗谷虹児(ふきや こうじ)に注目してみる。

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→ 「花嫁」 (画像は、「蕗谷虹児記念館|イベント情報」より。)

蕗谷虹児 - Wikipedia」:

蕗谷 虹児(ふきや こうじ、1898年(明治31年)12月2日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は画家。詩人。

 蕗谷 虹児(ふきや こうじ)という名前でピンと来ない人も、「花嫁人形」(蕗谷虹児作詞・杉山はせを作曲)なる曲の歌詞やメロディを聴くと、ああ、あの曲を作詞した人なのかと気付かされるかもしれない。

 歌詞の一部を転記する:

金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

文金島田に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ


 泣いているのは嫁いでいく花嫁なのか、後ろ姿を見送る少年の蕗谷虹児なのか。
 美しい母を少年の日に亡くした蕗谷虹児の画業をじっくり眺めてみたい。

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2008/10/08

『新撰病乃雙紙』から

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→ 立川昭二著『生と死の美術館』(岩波書店) 目次などは、「moreinfo」にて。

 立川昭二著の『生と死の美術館』(岩波書店)を添えてある絵画画像を眺めつつ読んでいて、本書のテーマならではだが、今度は『新撰病乃雙紙(しんせんやまいのそうし)』なる存在を知った。

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← 畑で収穫したカボチャ。小ぶりのものが二十個ほど。大半は知り合いに提供し、残ったこの五つは、色艶もいいので、玄関に飾った。ハロウィンってわけではないのだが。来訪された方は、こんなものが鎮座していて、さぞかしびっくりされるだろう。

 この「双紙」は、「嘉永三年(一八五〇)幕府の医学館助教の大膳亮道が大阪の画工福崎一寶に描かせた一服の絵巻」で、「ここには、この舌の腫物の女をはじめ、脱肛痔の男、広節頭条虫症の男、蟯虫症の娘、子宮脱の女、老人性失禁症の男など、さまざまな病人の姿が巧みな筆致と鮮やかな色彩で描かれている」という。

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2008/10/03

鰭崎英朋…今こそ大正ロマン!

「夢幻の美“鏡花本の世界”~泉鏡花と三人の画家」:カイエ」なる頁で、鰭崎英朋(ひれざきえいほう)という名の画家に幽霊画のあることを知った。
 文中に掲げてある絵はどれも魅力的だが、特に、鰭崎英朋の『蚊帳の前の幽霊』 明治39年 絹本着色)が気に入ったのである。

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← 鰭崎英朋 『蚊帳の前の幽霊』(明治39年 絹本着色) (画像は、「「夢幻の美“鏡花本の世界”~泉鏡花と三人の画家」:カイエ」より。)

 上掲の頁には、ほかにも目を惹く絵が載っている。
 せっかくなので、ちょっとだけネット情報を収集してメモしてみることにした。

 鰭崎英朋は(明治の人だが)、竹久夢二や鏑木清方、高畠華宵らと並び、大正ロマンを髣髴とさせる美人画(挿画)を描いた一人。
どこか耽美で妖艶で都会的な洗練された美意識がもたらされた時代」を象徴する一人で、「美人画・新聞紙上の相撲絵・大衆雑誌や小説の挿絵・口絵などで活躍し、一世を風靡した」人でもある。

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2008/08/16

Perle ペルレ…遍路の旅は六道の闇夜へと

 ネットを好みのタッチの素描(デッサン)を求めて放浪(漂流)していたら、「Perle(ペルレ)」という名の線描作家の作品に遭遇した。

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→ 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった21」 (以下、画像は最後の一枚を除き、何れも「ペルレ」より。)

 幾つか同氏の作品を断りもなく掲載させてもらうが(あくまでネットでの画面で観た印象という限定の上でのこととして)、エゴン・シーレの素描のタッチをどうしても連想させる。

 そんな感想を述べたら、本人は光栄に思うか、迷惑に思うだけなのか。
 チェッとか、アホめ! という舌打ちの音が聞こえてきそう。

 学生時代だったか、エゴン・シーレの世界に痺れて久しい小生、ある意味、ちょっとでもシーレの匂いを嗅ぎ取ると、誤解になりかねないとしても、どうしても、その色眼鏡(偏見?)で見てしまうのかもしれない。
 あるいは、平面アートへの小生の素養のなさのゆえなのかもしれないとも思う。

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2008/06/18

湯真藤子のユーモレスクワールド

 ARTIST 木村了子(例によって本ブログが形式上、日記でもあるので、勝手ながら敬称は敬愛を籠めて略させてもらう)の「KIMURA Ryoko Art Collections . blog」の各記事をつらつら眺めていたら、「おともだち@blog 湯真藤子」という記事に掲げられている絵に眼が止まった。

 ブログが紹介されている:
湯真藤子YUMA TOUKO Art Works

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← 湯真藤子『THORN ROSE』(1167×910mm, oil painting, 2007) (画像は、「THORN ROSE 湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」より) 本人の弁によると(「THORN ROSE 湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」)、「「THORN ROSE」とは「いばら姫」の事で、百年寝てると王子様が助けに来てくれるという、「果報は寝て待て」を体現している、夢の様な話です」とのことだが、詳しくは当該頁のご本人の文章を読んでもらいたい。この絵をひと目見て気に入ったと思ったのだが、案外と彼女の文章に惹かれたような感もなきにしもあらず。
 
 早速、「湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」へ飛び彼女の絵の数々を眺めてみる。同時に文章も読む。
 大抵は絵に注意を払っても文章は流してしまうものだが、やはり作者の弁となると一味違う。批評の次元に留まらず、実作者の感性というものが滲み出てくる。

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2008/06/12

西牧徹…ラブドール幻想

 西牧徹(の世界)は、例によって(?)「vanilla-gallery 西牧徹展 黒戯画源展」で知った。
 一度でも見てしまうと、言葉に成らないものの彼の絵は脳裏にハッキリ刻み込まれてしまう。

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← 「西牧徹-黒戯画世界」の表紙画像。

(「タナトス6通信 b◆2007.9.2◆-b西牧徹 超舌トークショウ」参照。)

西牧徹-黒戯画世界 Blacken Caricature-Toru Nishimaki」の中の「西牧 徹 プロフィール」によると:

1964年東京生まれ。少年・少女と玩具・食物などをモチーフに鉛筆画を制作。2003年に自らの作品を「黒戯画」と名づける。この「黒戯画」は“艶画”と“福画”に大別され、性幻想に基づくもの、キエムクーとその仲間たちの日常と冒険を描いたもので、ユートピア絵画という点で同一線上の世界となっている。

 最初は、少女幻想というか性幻想の画に惹き付けられ、覗いていくと、そこには「キエムクーとその仲間たちの日常と冒険を描いたもの」も一つの世界として描かれていて、二つの世界にやや戸惑う。
 でも、というか、しかも、「ユートピア絵画という点で同一線上の世界となっている」!

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2008/01/02

宮沢賢治から昇亭北寿へ飛びます!

宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」をベースに配信している「宮沢賢治 「Kenji Review」」というメールマガジンを愛読している。
(メルマガ配信と同時に(相前後して)、ホームページにもメルマガと同じ文面が載るようだ。)
 このメルマガ(記事)の内容は、今回は特に小生にはタイムリーだった。好きな宮沢賢治の話題であり、且つ我がブログでも時折採り上げている、これまた小生の好きな(浮世絵)版画と賢治との関わりを話題の俎上に乗せてくれているのである。

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→ 昇亭北寿『江之嶋七里ヶ濱』(1818~29) (画像は、「江の島の浮世絵 昇亭 北寿」より。HP:「江の島(江ノ島)マニアック」) 以下に続くどの作品(一枚は除く)についても言えることだろうと思うのだが、現代の刷師らの手で改めて刷り直してもらったなら、さぞかし見栄えがまるで違うことだろうにと思う。画像で目にするものとは、多分、江戸の世に刷って売りに出された色合いとは随分、違うのではなかろうか。

2007.12.22 第461号(「松の針」) 」では、まず同人誌仲間である保阪嘉内宛ての手紙が紹介されている。
 この手紙の文面がまた興味深いが、ここでは勿体無いが素通りする。

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2006/03/19

闇夜の国から二人で舟を出す

 小池 真理子氏著の『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社)を過日、読了した。小池氏の久々のエッセイ集だとか。言うまでもなく同氏は生粋の小説家である。その意味で、必ずしも彼女の小説のファンでもない、読んだというと、『欲望』(映画化され昨年末に公開されているはず)だけで、肝心の直木賞受賞作である『』さえ読んでいないままにエッセイを読むのは、書き手の評価というより印象を誤らせる懸念もある。
(本書『闇夜の国から二人で舟を出す』の中で、この『恋』という作品が生まれた経緯が興味深く書かれている!)
 その上で、しかし、率直な読後感、否、読んでいる最中の感覚からしても、好印象を残してくれた。この人ならいい小説を書いてくれると思うし、それとは別個に女性の生き方を主張を持って示してくれている一冊の本として読んでも、つまり小池氏の世界への水先案内本として読んでも、一向、差し支えないとも思った。
 小生が初めて彼女の本を読んだのは、女流作家(書き手)を纏めて読み漁っていた頃に、その中の一冊として上記した『欲望』だった。残念ながらあまり印象が残っていない。

 当時(主に失業時代だった十年余り以前)読んだのは、白洲正子、林真理子、長野まゆみ、樋口一葉、坂東真砂子、柳美里、唯川恵、吉本ばなな、桐生典子、(宮部みゆき)、群ようこ、乃南アサといった面々だった。その中に小池 真理子氏もいたわけである。
(この中に樋口一葉がいる。恥ずかしながら、学生時代には手が出せず、あるいた出したが読みきれず、94年の一ヶ月ほどの入院の際に一葉集を読んだのだった。)
 女性の書き手を読み漁ったというと、やはり若い頃、主に大学時代で、円地文子、幸田文、倉橋由美子、山口洋子、落合恵子、津島佑子、田辺聖子、富岡多恵子、曽野綾子、桐島洋子といった方々の本を折々に読んだ。学生の頃が小生の第一期女流作家耽溺(大仰?!)時代で、93年から95年が第二期女流作家渉猟(?)時代と言えるかもしれない。
 要するに一人の作家に分け入るより、広く浅く早く焦り気味に手を出していたのだった。どの作家のどの本がという印象より、めくるめく女の(文)体の群れに目が点々だったわけである。

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2005/12/08

読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』

ラヴェルのボレロから牧神の午後へ」の中で、カトリーヌ・ミエ著の『カトリーヌ・Mの正直な告白』(高橋利絵子訳、早川書房)を読み始めたと書いている。
 内容は、出版社のレビューだと、「彼女は呼吸するようにセックスする。体のすべてを使って、いつでも、どこでも、だれとでも。フランス現代美術誌『アート・プレス』の女性編集長が、自らの奔放な性生活を赤裸々に明晰に描き、文学界を騒然とさせた自伝的作品」というもの。
 先週末、残りの部分を一気に読んだ。

 小生は、「セックス描写の連続とも思える『カトリーヌ・Mの正直な告白』は、確かに女性でなければ描けない女性の観点・生理・感覚があって、驚く面もあるが、それでも退屈はしないで読み通せそうな予感がある」と、上掲の記事で書いているが、確かに最後まで読み通した。
 本書にしても、やはり読んでいくうちに段々と退屈になっていく。セックス描写に尽きるわけだから、ややスキャンダラスな内容だったり、性的な冒険を試みたりしていても、結局は似たり寄ったりの叙述の連続になってしまう。
 エロ小説にしたって、退屈せずに最後まで読ませるのは相当な技術が要る(ようだ。どんな工夫や秘密が要るのか小生には分かっていない)。週刊誌などのたかが数頁のエロ記事でも、すぐに退屈してしまう。挿絵か写真がなかったら、文章を追っているうちに耐え難いほどの苦痛を覚える時もある。

 その意味では小生に最後まで一応は読ませたのだから、凡庸な内容ではない。というより表現力だろうか。ほんの時折だが、タイトルにあるように、彼女の告白の正直さ(決してえげつなくない。徹底して正直で率直であろうとしているから)が形而上的高みに届くかのような叙述に出会うことがある。
 快感とか興奮も悲しいかな人間は薬物でも使用しない限り、病的ならざる凡人は持続できない。すぐに新しい刺激を欲する。喉が渇く、呑みたい、性において渉猟的であれば(形の上では受動的な風を装っても、それは呼び込み誘う手口に過ぎない)、水呑み場はすぐに見つかる。特に若く醜くない女性であれば、草刈場は至る所、至る時に存在する。

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2005/12/03

トルストイ著『生命について』

 数年ぶりでトルストイ著『生命について』(八島雅彦訳、集英社文庫)を読んだ。
 読んだ…、と言い切れるのか、ちょっと危ういかもしれない。実のところ、読むのが辛かったのである。一見すると彼なりに論理的に書いているようで、必ずしもそうではなく、敢えて言えばパセティックな論理に貫かれていると言ったほうがいいだろう。
 読むものからすると(その世界に没頭出来る者には)ある種の共感をもって、波に乗るように読み進められるが、共感できないと、全ての言葉が右の耳から左の耳へ通り抜けていく。
 こうした評論風エッセイを読むと感じるのは、トルストイがやはり天性の小説家だということだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などは、読む者を物語や、あるいは個々の叙述の場面に浸らせてくれる。読んでいるうちに、いつしか滔々(とうとう)と流れる大河に浮かび漂っていていることに気付き、読者はただ作家の筆の導くがままに流れていけばいい。
 作家の世界にのめり込もうと思わなくても、豊穣なる世界、肥沃なる大地をしっかりと、今、歩いているという感じを持つことができる。
 それが、自らが思想家というか宗教的実践者として語りだすと、教条的であり、道徳臭が強く、不毛な意味で理屈っぽい。
 そう、彼は、上掲の大作を書き上げた後、小説家たることを止めて、社会的慈善事業などの実践者たる道を選んだのである:
トルストイ・年譜

 作家魂を捨ててまで、そうした世界に飛び込んだのならば、枯れたとまではいかなくても、何某かの宗教的高見に至るか触れるかしていればいいが、本書の末尾にある「鑑賞 ――ぼくたちの同時代人」の中で中沢新一氏も書いているように、トルストイほどに怪物的なまでの強い自己愛の持ち主はなく、まさに、本書は過剰なまでの自己愛の書であり、高尚な宗教的知恵を語っていながら、その実、トルストイ本人はその知恵から一番遠いことを、最初から最後までつくづくと感じさせられる。
 逆に言うと、その凄まじいエゴイストぶりを感得することに本書を読む(小生には)被虐的楽しみが或ると言えようか。その強烈な自己愛と告白衝動癖は、小説の場合も露骨に表れていたりするのだが、同時に彼の作家魂が、芸術的表現の中に韜晦してくれるので、臭みを感じるよりも感銘が深いのである。

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