肉体・恋愛

2008/06/18

湯真藤子のユーモレスクワールド

 ARTIST 木村了子(例によって本ブログが形式上、日記でもあるので、勝手ながら敬称は敬愛を籠めて略させてもらう)の「KIMURA Ryoko Art Collections . blog」の各記事をつらつら眺めていたら、「おともだち@blog 湯真藤子」という記事に掲げられている絵に眼が止まった。

 ブログが紹介されている:
湯真藤子YUMA TOUKO Art Works

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← 湯真藤子『THORN ROSE』(1167×910mm, oil painting, 2007) (画像は、「THORN ROSE 湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」より) 本人の弁によると(「THORN ROSE 湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」)、「「THORN ROSE」とは「いばら姫」の事で、百年寝てると王子様が助けに来てくれるという、「果報は寝て待て」を体現している、夢の様な話です」とのことだが、詳しくは当該頁のご本人の文章を読んでもらいたい。この絵をひと目見て気に入ったと思ったのだが、案外と彼女の文章に惹かれたような感もなきにしもあらず。
 
 早速、「湯真藤子YUMA TOUKO Art Works」へ飛び彼女の絵の数々を眺めてみる。同時に文章も読む。
 大抵は絵に注意を払っても文章は流してしまうものだが、やはり作者の弁となると一味違う。批評の次元に留まらず、実作者の感性というものが滲み出てくる。

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2008/06/12

西牧徹…ラブドール幻想

 西牧徹(の世界)は、例によって(?)「vanilla-gallery 西牧徹展 黒戯画源展」で知った。
 一度でも見てしまうと、言葉に成らないものの彼の絵は脳裏にハッキリ刻み込まれてしまう。

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← 「西牧徹-黒戯画世界」の表紙画像。

(「タナトス6通信 b◆2007.9.2◆-b西牧徹 超舌トークショウ」参照。)

西牧徹-黒戯画世界 Blacken Caricature-Toru Nishimaki」の中の「西牧 徹 プロフィール」によると:

1964年東京生まれ。少年・少女と玩具・食物などをモチーフに鉛筆画を制作。2003年に自らの作品を「黒戯画」と名づける。この「黒戯画」は“艶画”と“福画”に大別され、性幻想に基づくもの、キエムクーとその仲間たちの日常と冒険を描いたもので、ユートピア絵画という点で同一線上の世界となっている。

 最初は、少女幻想というか性幻想の画に惹き付けられ、覗いていくと、そこには「キエムクーとその仲間たちの日常と冒険を描いたもの」も一つの世界として描かれていて、二つの世界にやや戸惑う。
 でも、というか、しかも、「ユートピア絵画という点で同一線上の世界となっている」!

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2008/01/02

宮沢賢治から昇亭北寿へ飛びます!

宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」をベースに配信している「宮沢賢治 「Kenji Review」」というメールマガジンを愛読している。
(メルマガ配信と同時に(相前後して)、ホームページにもメルマガと同じ文面が載るようだ。)
 このメルマガ(記事)の内容は、今回は特に小生にはタイムリーだった。好きな宮沢賢治の話題であり、且つ我がブログでも時折採り上げている、これまた小生の好きな(浮世絵)版画と賢治との関わりを話題の俎上に乗せてくれているのである。

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→ 昇亭北寿『江之嶋七里ヶ濱』(1818~29) (画像は、「江の島の浮世絵 昇亭 北寿」より。HP:「江の島(江ノ島)マニアック」) 以下に続くどの作品(一枚は除く)についても言えることだろうと思うのだが、現代の刷師らの手で改めて刷り直してもらったなら、さぞかし見栄えがまるで違うことだろうにと思う。画像で目にするものとは、多分、江戸の世に刷って売りに出された色合いとは随分、違うのではなかろうか。

2007.12.22 第461号(「松の針」) 」では、まず同人誌仲間である保阪嘉内宛ての手紙が紹介されている。
 この手紙の文面がまた興味深いが、ここでは勿体無いが素通りする。

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2006/03/19

闇夜の国から二人で舟を出す

 小池 真理子氏著の『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社)を過日、読了した。小池氏の久々のエッセイ集だとか。言うまでもなく同氏は生粋の小説家である。その意味で、必ずしも彼女の小説のファンでもない、読んだというと、『欲望』(映画化され昨年末に公開されているはず)だけで、肝心の直木賞受賞作である『』さえ読んでいないままにエッセイを読むのは、書き手の評価というより印象を誤らせる懸念もある。
(本書『闇夜の国から二人で舟を出す』の中で、この『恋』という作品が生まれた経緯が興味深く書かれている!)
 その上で、しかし、率直な読後感、否、読んでいる最中の感覚からしても、好印象を残してくれた。この人ならいい小説を書いてくれると思うし、それとは別個に女性の生き方を主張を持って示してくれている一冊の本として読んでも、つまり小池氏の世界への水先案内本として読んでも、一向、差し支えないとも思った。
 小生が初めて彼女の本を読んだのは、女流作家(書き手)を纏めて読み漁っていた頃に、その中の一冊として上記した『欲望』だった。残念ながらあまり印象が残っていない。

 当時(主に失業時代だった十年余り以前)読んだのは、白洲正子、林真理子、長野まゆみ、樋口一葉、坂東真砂子、柳美里、唯川恵、吉本ばなな、桐生典子、(宮部みゆき)、群ようこ、乃南アサといった面々だった。その中に小池 真理子氏もいたわけである。
(この中に樋口一葉がいる。恥ずかしながら、学生時代には手が出せず、あるいた出したが読みきれず、94年の一ヶ月ほどの入院の際に一葉集を読んだのだった。)
 女性の書き手を読み漁ったというと、やはり若い頃、主に大学時代で、円地文子、幸田文、倉橋由美子、山口洋子、落合恵子、津島佑子、田辺聖子、富岡多恵子、曽野綾子、桐島洋子といった方々の本を折々に読んだ。学生の頃が小生の第一期女流作家耽溺(大仰?!)時代で、93年から95年が第二期女流作家渉猟(?)時代と言えるかもしれない。
 要するに一人の作家に分け入るより、広く浅く早く焦り気味に手を出していたのだった。どの作家のどの本がという印象より、めくるめく女の(文)体の群れに目が点々だったわけである。

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2005/12/08

読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』

ラヴェルのボレロから牧神の午後へ」の中で、カトリーヌ・ミエ著の『カトリーヌ・Mの正直な告白』(高橋利絵子訳、早川書房)を読み始めたと書いている。
 内容は、出版社のレビューだと、「彼女は呼吸するようにセックスする。体のすべてを使って、いつでも、どこでも、だれとでも。フランス現代美術誌『アート・プレス』の女性編集長が、自らの奔放な性生活を赤裸々に明晰に描き、文学界を騒然とさせた自伝的作品」というもの。
 先週末、残りの部分を一気に読んだ。

 小生は、「セックス描写の連続とも思える『カトリーヌ・Mの正直な告白』は、確かに女性でなければ描けない女性の観点・生理・感覚があって、驚く面もあるが、それでも退屈はしないで読み通せそうな予感がある」と、上掲の記事で書いているが、確かに最後まで読み通した。
 本書にしても、やはり読んでいくうちに段々と退屈になっていく。セックス描写に尽きるわけだから、ややスキャンダラスな内容だったり、性的な冒険を試みたりしていても、結局は似たり寄ったりの叙述の連続になってしまう。
 エロ小説にしたって、退屈せずに最後まで読ませるのは相当な技術が要る(ようだ。どんな工夫や秘密が要るのか小生には分かっていない)。週刊誌などのたかが数頁のエロ記事でも、すぐに退屈してしまう。挿絵か写真がなかったら、文章を追っているうちに耐え難いほどの苦痛を覚える時もある。

 その意味では小生に最後まで一応は読ませたのだから、凡庸な内容ではない。というより表現力だろうか。ほんの時折だが、タイトルにあるように、彼女の告白の正直さ(決してえげつなくない。徹底して正直で率直であろうとしているから)が形而上的高みに届くかのような叙述に出会うことがある。
 快感とか興奮も悲しいかな人間は薬物でも使用しない限り、病的ならざる凡人は持続できない。すぐに新しい刺激を欲する。喉が渇く、呑みたい、性において渉猟的であれば(形の上では受動的な風を装っても、それは呼び込み誘う手口に過ぎない)、水呑み場はすぐに見つかる。特に若く醜くない女性であれば、草刈場は至る所、至る時に存在する。

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2005/12/03

トルストイ著『生命について』

 数年ぶりでトルストイ著『生命について』(八島雅彦訳、集英社文庫)を読んだ。
 読んだ…、と言い切れるのか、ちょっと危ういかもしれない。実のところ、読むのが辛かったのである。一見すると彼なりに論理的に書いているようで、必ずしもそうではなく、敢えて言えばパセティックな論理に貫かれていると言ったほうがいいだろう。
 読むものからすると(その世界に没頭出来る者には)ある種の共感をもって、波に乗るように読み進められるが、共感できないと、全ての言葉が右の耳から左の耳へ通り抜けていく。
 こうした評論風エッセイを読むと感じるのは、トルストイがやはり天性の小説家だということだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などは、読む者を物語や、あるいは個々の叙述の場面に浸らせてくれる。読んでいるうちに、いつしか滔々(とうとう)と流れる大河に浮かび漂っていていることに気付き、読者はただ作家の筆の導くがままに流れていけばいい。
 作家の世界にのめり込もうと思わなくても、豊穣なる世界、肥沃なる大地をしっかりと、今、歩いているという感じを持つことができる。
 それが、自らが思想家というか宗教的実践者として語りだすと、教条的であり、道徳臭が強く、不毛な意味で理屈っぽい。
 そう、彼は、上掲の大作を書き上げた後、小説家たることを止めて、社会的慈善事業などの実践者たる道を選んだのである:
トルストイ・年譜

 作家魂を捨ててまで、そうした世界に飛び込んだのならば、枯れたとまではいかなくても、何某かの宗教的高見に至るか触れるかしていればいいが、本書の末尾にある「鑑賞 ――ぼくたちの同時代人」の中で中沢新一氏も書いているように、トルストイほどに怪物的なまでの強い自己愛の持ち主はなく、まさに、本書は過剰なまでの自己愛の書であり、高尚な宗教的知恵を語っていながら、その実、トルストイ本人はその知恵から一番遠いことを、最初から最後までつくづくと感じさせられる。
 逆に言うと、その凄まじいエゴイストぶりを感得することに本書を読む(小生には)被虐的楽しみが或ると言えようか。その強烈な自己愛と告白衝動癖は、小説の場合も露骨に表れていたりするのだが、同時に彼の作家魂が、芸術的表現の中に韜晦してくれるので、臭みを感じるよりも感銘が深いのである。

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2005/11/16

小川 洋子著『博士の愛した数式』

 小川 洋子著の『博士の愛した数式』(新潮社)を読了した。期待に違わぬ本だった。刊行された一昨年から読む機会を求めていたが、意に相違して今頃になって読むことに。
 小川洋子さんについては、以前から注目していた。朝日新聞などにエッセイが載ると、他の書き手の文よりも丁寧に読む。というか、つい、文章の世界に引き込まれていく。
 筆力が抜群と感じさせられた。
 本書の紹介は今更、もう意味を持たないだろう。読書家なら評価を知っているか、既に読んでいるに違いないし。小生などが屋上屋を架するまでもない。
 念のため出版社側のレビューを示しておく(「Amazon.co.jp: 本 博士の愛した数式」より):

記憶が80分しか持続しない天才数学者は、通いの家政婦の「私」と阪神タイガースファンの10歳の息子に、世界が驚きと喜びに満ちていることをたった1つの数式で示した…。頻出する高度な数学的事実の引用が、情緒あふれる物語のトーンを静かに引き締め整える。著者最高傑作の呼び声高い1冊。

 この本しか読んだことのない小生には、著者最高傑作かどうか分からない。でも、傑作だとは言える。
(ふと、ダニエル・キイス著の『アルジャーノンに花束を』(小尾 芙佐 訳、早川書房、文庫版)を連想したが…。)

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2005/11/06

ユルスナール著『黒の過程』

 小生如きが錬金術について語れるはずもない。
 ただ、本書ユルスナールの『黒の過程』が、錬金術に憑かれた時代を背景にしていた以上は、最低限のことは触れておきたい。
 錬金術という言葉くらいは小生も知っている。
 多少なりとも関心を抱き始めたのは、若い頃の小生のヒーローだったニュートンに関わっている。近代科学の祖といってもいいニュートンだが、終生、ヘルメス主義や錬金術に関心を持ち、むしろ、彼の生涯を通じてのテーマは、こうした今の我々からすれば古色旧態たる魔術めいた世界の探求だったと言える。
 そもそも、ニュートンの研究成果である万有引力の法則は、不可思議極まる法則だ。
その公式を見ると、時間という要素が入っていない。ということは、天体同士の間に作用する力は、計算上、瞬時に伝わることになってしまう。そんなことは、ニュートン自身だって、信じていない。彼は、そうした法則を発見しつつも、その背後には、見えざる何かがあるに違いないと思っていたわけである。
(彼の「我は仮説を作らず」という有名な言葉は、ここに関係してくる。)
 そうした隠れた要素への関心は、ニュートンにおいても、物理法則に止まらなかった。かの経済学者のケインズがニュートンを評して、「最後の魔術師」と呼んだのも、むべなるかな、である。
 こうした関心からニュートンを理解するには、島尾永康著の『ニュートン』(岩波新書)が格好の書かもしれない。島尾永康氏には、さらに、まさにニュートンの錬金術へのこだわりに焦点を合わせた『物質理論の探究』(岩波新書)があるようだが、こちらは小生は読んでいない。
 とにかく、そもそもニュートンの時代には、我々がイメージしているような<科学>も<科学者>も存在していなかったのだ。

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2005/03/27

白洲正子著『両性具有の美』

 本書(新潮文庫刊)は小生が読む白洲正子女史の本としては三冊目である。
 最初に読んだのは、『西行』(新潮文庫刊)で、ついで、『白洲正子自伝』だった。
 小説家ではない書き手で好きな人に例えばピアニストの中村紘子女史がいる。『ピアニストという蛮族がいる』とか、『アルゼンチンまでもぐりたい』(いずれも文春文庫刊)は、痛快なエッセイで、作家を名乗る方でもこれだけ達筆
で達意の文章を書ける人はいないとつくづく思ったものだ。
 白洲正子女史の文章も違った意味で痛快である。明快でもある。そうした経験があったものだから、本書も楽しみに車中で読んだ。
 が、なんとなく女史らしくない。あれこれ歴史上の経緯を語っているのだが、どうも、達意には思えなかったのである。
 で、改めて文庫のカバー裏の著者紹介を読むと、「幼時より梅若宗家で能を習う」とある。本書を読むうちに分かったことだが、彼女はずっと能を舞いたいと願って生きてきたのだ。五十年も。その挙げ句、女には出来ないと悟る。
 本書の大塚ひかり氏による解説から引用させてもらう。「世阿弥がそういう育ち方(同性愛)をしているんです。だから女にはお能は舞えないということが、私、五十年やってよくわかりました。あれは男色のもので、男が女にならなくちゃだめだ、って。精神的なものもそうだし、肉体的にもそうです」

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堀川潭/著 『悲劇の島』

 本書には、「記者の見た玉砕島グアム」というサブタイトルが付されている。
 昭和41年に「玉砕島」というタイトルで出版された(弘文堂刊)を文庫化(光人社NF文庫)したものである。
 小生にとって、近年では、昨年読み紹介済みの本間猛著『予科練の空 かかる同期の桜ありき』(光人社NF文庫刊)に続く戦記物である。
 本書は、上掲のサイトの紹介を引用すると、「玉砕は太平洋戦争が生んだ悲劇である。グアム守備隊の壊滅後、報道班員一行は島の北端に追い込まれ、自決か突撃かの関頭に立たされた―荒涼たる岩礁地帯からジャングルに分け入り、雨とと飢渇と絶望と戦い、生命の極限状況のもとで、流浪の果てに、奇しくもアメリカ兵士と対決するまでの二ヵ月間を描く感動作。 」となるらしい。
 しかし、最後の「奇しくもアメリカ兵士と対決するまでの…」というのは、ちょっと無理がある。流浪の果てにアメリカ兵と行き会うのだが、決して対決したわけではない。
 むしろ、報道記者たる著者(堀川潭=ほりかわたん)は、アメリカ兵(軍)と遭遇することを発見され次第殺されるかもしれない、あるいは掴まって虐待されるかもしれないという恐怖と、あるいは生き延びさせてくれるかもしれないとい
う期待の相半ばする中で意図的に望んでいたのである。

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