前回(「二上山のこと山窩のこと」参照)、小生は、「奈良の二上山は、(にじょうざん)と読むが、高岡の二上山は(ふたがみやま)と呼ぶ」と書いた。
このことに間違いはないのだが、五木寛之の『風の王国』(新潮文庫)を読み進んでいって知ったことは、奈良の二上山(にじょうざん)も、昔は、<フタカミヤマ>と呼んでいたということ。
やはり、この読み方のほうが、雰囲気が出る。
高岡の二上山は、「ふたつの神という意味もある」「古代から神の山と崇められて来た」山である。
奈良の二上山(フタカミヤマ)は、どういう謂れがあるのだろう。「標高515メートルの雄岳(北側)と474メートルの雌岳(南側)の二峰」があり、悲劇の皇子である大津皇子の墓があるからなのだろうか。
「サヌカイト」、「凝灰岩」、「金剛砂」の3つの石がある特別な山という受け止め方が古来よりあったのだろう。眺望も、前稿に記したように、「山頂付近からは、日本史の数々の舞台となった大和平野が一望でき、雄岳から雌岳へ向かう途中からは河内平野と大阪湾、雌岳の向こうには葛城、金剛 の山並みを望むことができる」ということで、この地に遣って来た渡来の人々の出自の風景を強く連想させるものだったのだろう。
ついでながら、二上山のあれこれや万葉集の中の大津皇子らの歌などを親しみやすく紹介しているサイトがあった:
http://www4.kcn.ne.jp/~t_kankou/kanko/nijyo/main.html(削除されたのか、今はこの頁が見当たらない。06/01/11注記)
このサイトの中の、「折口信夫 (おりぐちしのぶ)」の項を読んでいて、折口信夫(釈迢空)の小説『死者の書』が、(恐らくは)「大津皇子をモデルに描かれ」ていることを思い出させてくれた。やはり、彼の本は読まないと、古代のことも理解が深まらない。
さて、五木寛之の『風の王国』を読み進めて、小生の不明がまた露見してしまった。小生は、「近代において、山々を遊行する人びとを時に山窩などと賎称した。明治以降、政府は、戸籍に載らない、こういった流浪の民を徹底的に弾圧したり、戸籍に組み入れて行ったりした(国の民を一人残らず把握し、税を徴収し、兵力として活用する必要などがあったのであろう)」と記し、その上で、「最終的に完遂したのは、十五年戦争当時だったとも聞いたことがある」と書いた。
最近のコメント