書評エッセイ

2011/06/05

ウエルベック著『素粒子』と文学の命

 ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊)を読了した。フランスでベストセラーになり、様々なスキャンダラスな物議を醸し出したという本書は、既に読まれた方も多いだろう。

9784480421777

← ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊) 「人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作」だって。

 文学に疎い小生は、昨年末、近所の図書館で年末年始の休暇中に読む本を物色していて、本書を見つけた。全くの未知の本だった。その前にG・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を手にしていたのだが、他に何かずっしり来る本はないかと探していて、単にタイトルに魅せられて、ちょっと手を伸ばしてみただけのつもりだった。書評などで採り上げられていたのかどうかも、まるで知らなかった次第なのである。
 パラパラと捲ると、文章に力がある。これは読んでもいいというサインだ。

続きを読む "ウエルベック著『素粒子』と文学の命"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/05/27

多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者:ドナルド・コクセター

 過日、ブログ日記でも紹介していた、シュボーン・ロバーツ著の『多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者』(糸川洋 訳 日経BP書店)を本日(27日)、読了。

4822283828

← シュボーン・ロバーツ著『多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者』(糸川洋 訳 日経BP書店) 「幾何の美しさを追求し芸術家、建築家、物理学者からも認められたイギリス・カナダで活躍の数学者(ドナルド・コクセター)の生涯。2008年アメリカ数学会のオイラー賞受」といった本。

 かなり高度な数学の本、でも、著者もだが、特に訳者も高校で数学に辟易した口。
 それでも、苦労せずに訳せたという。

続きを読む "多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者:ドナルド・コクセター"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/09/22

メデューサとしてのクラゲ?

 一昨日の日記の冒頭で、「ある本を読んでいたら、「メデューサ(メドゥーサ)」という言葉に久々に出合った。ギリシャ神話に出てくる魔物である」と書いている。
 せっかくなので(?)、当該の本の関連の記述を本ブログに転記しておきたい。

9784772695107

← ユージン・カプラン著の『奇妙でセクシーな海の生きものたち』.(土屋晶子◎訳 インターシフト)


 格別な意図はない。あくまで個人的な興味であり、今後のため(になるとは到底、思えないが)メモしておきたいのである。

 今、読んでいる本とは、 ユージン・カプラン著の『奇妙でセクシーな海の生きものたち』.(土屋晶子◎訳 インターシフト)である。

続きを読む "メデューサとしてのクラゲ?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/04/20

オースター『ティンブクトゥ』の周辺

 夏目漱石は、『吾輩は猫である』といった小説を書いた。
 何度か読み返したが、読むたび面白く感じる。

4105217119

← ポール・オースター著『ティンブクトゥ』(柴田 元幸【訳】 新潮社) 奇妙な題名の「ティンブクトゥ」。それは、飼い主が信じるところの、来世であり、「人が死んだら行く場所」の名。飼い犬が「理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルチモアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある」。

 さて、「我輩は犬である」といった類いの小説を書いた人がいるのかどうか、小生は知らない(多分、いるだろう)。
 猫の感性や感覚も、恐らくは人間(常人)の想像を超えるものがあるのだろう。
 それでも、身近な愛玩動物として、小説的空想を逞しくしてみたくなるのは分かる。

 一方、犬だって猫に負けず劣らず我々人間に身近な愛玩動物である。

続きを読む "オースター『ティンブクトゥ』の周辺"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/04/18

ル・クレジオ 空を飛ぶ

 昨日の日記「空を飛ぶ夢を叶えるには」では、飛行機や気球などの機械や大袈裟な道具を使わず空を飛びたいという人類の夢について呟いてみた。
 その際、日記ではアメリカの大統領が昨日発表した、人類を火星にという構想に触発されて書いたかのような形になっている。
 が、実際は違う。

20535

← J・M・G・ル・クレジオ著『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)

 それだけだったら、ちょっと興味深いニュースということでスルーしていただろう。
 実は、今読んでいるJ・M・G・ル・クレジオ著の『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)の中の一節に接して、やや大袈裟な表現を使うと共感・同感し快哉を叫ぶという心境に突き動かされて書いたのである。

続きを読む "ル・クレジオ 空を飛ぶ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/04/11

村上春樹訳チャンドラー『ロング・グッドバイ』を読む

 レイモンド・チャンドラー作『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳 早川書房)をとうとう読了した。

4152088001

← レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler)作『ロング・グッドバイ(THE LONG GOODBYE)』(村上春樹訳 早川書房 (2007/03/10 出版))

 とうとう、というのは、読書に割く時間がなく、情けなくもちびりちびりと、まるでブランデーでも嗜むようjに読む羽目になったこと、冒頭の一節を読み始めた瞬間からその文章に惹かれ、読み終えるのが惜しくてたまらなくなったこと、(最後は思いっきり情けない個人的事情だが)滅多に本を買えない小生、買った本を読む貴重な機会と時間が過ぎ去ったことなどの理由の故である。

 そして、読み終えるのが実に惜しいと感じさせた本でもあった。

続きを読む "村上春樹訳チャンドラー『ロング・グッドバイ』を読む"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/27

『敗北を抱きしめて』雑感(9)

 5月1日付け朝日新聞夕刊に評論家(で漫画の原作者でもある!)大塚英志氏による "「戦後史」すら与えられた国で "と題された一文が掲載されていた。どうやら憲法記念日を前にということでの小文のようだが、副題として「理念に忠実でなかった僕たち せめて国際仲介役できないか」とある。この副題は誰が付けたのか、分からない。新聞社の編集部のほうで付されたのだろうか。

 小生は大塚英志氏のことは、あまり知らない。昨年、ひょんなことから『「彼女たち」の連合赤軍』を読んだことがあるだけである。
 彼は朝日での一文の冒頭、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』が話題になった時、書評を求められたが、結局書かなかった、それは「一読して感じた生理的ともいえる不快さを払拭できなかったからだ」と記している。
 その不快さを彼は次のように説明している:

 ぼくが感じた嫌悪はだから同書の欠点に対してではなく、戦後史さえも「彼ら」に書かれてしまった自分たち自身への深い忸怩に他ならない。(大塚氏)

 悲しいことだが、この点、小生も同感なのである。別に戦中・戦後史について細かくフォローしてきたわけではないが、纏まった形での「敗戦」前後を展望した分析の書は、ついに現れていないように思われるのだ。

続きを読む "『敗北を抱きしめて』雑感(9)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『敗北を抱きしめて』雑感(8)

 今、俗に「太平洋戦争」などと呼び習わしている、日本が関わった戦争の名称。小生は、いつも、どう呼べばいいのか、迷ってしまう。「第二次世界大戦」というと、どこか世界史っぽいし、どこか欧州での戦争に焦点が絞られているようで、日本が関わったという印象が薄れてしまう。まさに、世界の歴史の中に埋没してしまいそうに感じてしまうのだ。

 もちろん、日本が世界の歴史の流れの中にあって、余儀なく戦争への道をひた走った面もないわけじゃない。が、今は、その点には触れない。
 さて、ほかに「大東亜戦争」とか、「十五年戦争」とか、いろいろありそうである。
 ところで、戦争に関するSCAPによる検閲政策のなかに、用語の変更に至るものもあったようである。

続きを読む "『敗北を抱きしめて』雑感(8)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『敗北を抱きしめて』雑感(6)

 今回からジョン・ダワー著『敗北を抱き締めて』の下巻に入る。
 従って以降の引用頁数は、特に断らない限り下巻であることを予め明記しておく。

 さて、マッカーサーの占領政策が終戦直後は勿論、中には今に至るも影響力を持つに至ったことはもっと知られていいだろう。中には今では空気のように当たり前になっていて、その歴史的経緯などすっかり忘れられているものもある。

 ところで、マッカーサーの占領政策が、我々誰しもが予想されるように、戦中、そして終戦直後の日本の状況を見て決定されているのではないことは、興味深い。マッカーサーの占領政策を決定する上で大きなウエイトを占めたのは、「マッカーサーの軍事秘書官であり、心理戦の責任者であったボナー・F・フェラーズ准将」だったという。

続きを読む "『敗北を抱きしめて』雑感(6)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『敗北を抱きしめて』雑感(5)

 終戦直後に限らないのだろうが、大概の左翼のエリート意識というのは、胡散臭くてならなかったものだ。しかもそのエリート意識というのは指導層の連中が持っているだけではなく、大組織の末端構成員でさえ、組織外の連中に対して持っていた。組織内の階層構造が、奇妙に歪んだ形で外部に投影されたのだろうと、察するに難くない。

 前衛という意識。そういう名称の雑誌さえある。ある種の教条があって、その枠組みからは髪の毛一本ほどの乱れも許されなかった(きっと、今とは実情が違うのだろうけれど)。「左翼あるいは共産主義者が考える前衛という発想自体が、まさに、大衆は後ろ向きで、上からの指導が必要であるという前提に立っていた。この点において、左翼のエリート意識は、天皇の庇護と威光の下で権力を保持しようとした保守主義者や占領軍と大きな違いはなかった」(p.318)

「マッカーサーの指導下にあるGHQと、改革の課題に不本意ながら従っていた保守派の有力者たちと、日本の「進歩的文化人」や日本共産党は、それぞれ形は異なっていたものの、ともに天皇制民主主義の実践者であった」(p.318-319)

続きを読む "『敗北を抱きしめて』雑感(5)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧