2021年1月の読書メーター
コロナ禍ということで読み始めた角川版漱石全集。先月は三冊を読んで、欠巻と別巻を除いて全巻読んだ。まさかコロナ禍がこんなに続くとは想像だにしなかった。そうでもなければ、全巻読破なんて試みなかったろう。その分、読書は充実したが。先月は豪雪で孤軍奮闘の除雪。腰や腕を傷めてしまった。
1月の読書メーター
読んだ本の数:12
読んだページ数:4782
ナイス数:8799
コロナ禍ということで読み始めた角川版漱石全集。先月は三冊を読んで、欠巻と別巻を除いて全巻読んだ。まさかコロナ禍がこんなに続くとは想像だにしなかった。そうでもなければ、全巻読破なんて試みなかったろう。その分、読書は充実したが。先月は豪雪で孤軍奮闘の除雪。腰や腕を傷めてしまった。
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← Pieter Bruegel the Elder - The Temptation of St Anthony (画像は、「Pieter Bruegel the Elder - The Temptation of St Anthony - WGA3339.jpg - Wikimedia Commons」より)
フロベール作品の収められた、『世界文学全集 (17) ボヴァリー夫人・聖アントワヌの誘惑・三つの物語』を30年ぶりに読了した。
結構、時間を費やして、じっくりと。初めて読んだ頃よりは、少しは読書体験、さらには創作体験も重ね、当然ながら昔よりは味わって読めたと思う。
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恥ずかしながら富山出身の身でありながら、前田普羅の存在を知ったのは、つい最近のことである。
奥野達夫氏から、『青花堂(しょうげどう)』という小冊子(非売品)を贈呈していただいた。その直前に我がサイトが5万ヒットしたばかりだったので、そのお祝いに戴いたような、勝手な受け止め方をつい、したものだった。
小生が、前田普羅の存在を認識したのは、実にこの冊子を読んでのことだったのである。
さて、この「青花堂」という名称だが、これは、版画家の棟方志功が恩義を受けた石崎俊彦氏に呈した堂号である。この小冊子には棟方志功が俳句の雑誌『古志』(昭和22年3月1日発行)に寄せた一文「青花堂先生」が冒頭に載せてある。
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ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊)を読了した。フランスでベストセラーになり、様々なスキャンダラスな物議を醸し出したという本書は、既に読まれた方も多いだろう。
← ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊) 「人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作」だって。
文学に疎い小生は、昨年末、近所の図書館で年末年始の休暇中に読む本を物色していて、本書を見つけた。全くの未知の本だった。その前にG・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を手にしていたのだが、他に何かずっしり来る本はないかと探していて、単にタイトルに魅せられて、ちょっと手を伸ばしてみただけのつもりだった。書評などで採り上げられていたのかどうかも、まるで知らなかった次第なのである。
パラパラと捲ると、文章に力がある。これは読んでもいいというサインだ。
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以下に示すのは、19歳のとき、ディランは、ある詩が新聞紙に掲載された。同紙である人物が詩の大賞を受賞した。この書簡はディランが受賞を祝う手紙を書き送った、その一部である。
一二、僕の人生。一段落の感動的な自伝
僕は、グラモーガンの別荘で、初めて日の光を見て、ウェールズ訛とメッキ工場の煙突から立ち上がる煙の恐怖の真只中で育ち、愛らしい赤子となり、早熟な子どもとなり、反抗的な少年となり、病的な若者となりました。僕の父は教師でした。これほど寛容な人を僕は未だかつて知りません。母はカマーゼンシャーの奥まった農村の出です。未だかつて会ったこともない、理屈を並べ立てる女性です。僕のたった一人の姉は足の長い女生徒らしさ、丈の短いドレスを着たお転婆らしさ、社会的俗物根性の段階を経て、落ち着いた結婚生活に入りました。僕は小学校の低学年で初めてタバコ(ボーイ・スカウトの大敵)を知り、中学校の上級生の時にアルコール(魔王)を覚えました。詩(オールドミスの友)が初めてそのヴェールを取り去って自らの姿を僕に晒したのは、僕が六、七歳の時でした。彼女は依然として僕のところにいます。時には、彼女の顔に古い受け皿のようにひびが入っていることもありますが、二年間、僕は新聞記者をしており、霊安室、自殺のあった家々――ウェールズでは自殺がとても多いのです――、そしていくつかのカルバン派の「礼拝堂」を毎日訪問していました。二年で十分でした。僕は物を書く以外は何もせず、時折『いかにして演じないか』という演劇の解説で、わずかばかりのお金を得ています。ある人間嫌いの医師は、僕の眉毛の整え方が気に入らなかったらしいのですが、僕に余命四年を宣告しました。あなたのあのひどい表現をお借りして――実際にはあなたの表現ではありませんが――彼の耳元で「まさか」とささやきたいものです。
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夏目漱石は、『吾輩は猫である』といった小説を書いた。
何度か読み返したが、読むたび面白く感じる。
← ポール・オースター著『ティンブクトゥ』(柴田 元幸【訳】 新潮社) 奇妙な題名の「ティンブクトゥ」。それは、飼い主が信じるところの、来世であり、「人が死んだら行く場所」の名。飼い犬が「理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルチモアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある」。
さて、「我輩は犬である」といった類いの小説を書いた人がいるのかどうか、小生は知らない(多分、いるだろう)。
猫の感性や感覚も、恐らくは人間(常人)の想像を超えるものがあるのだろう。
それでも、身近な愛玩動物として、小説的空想を逞しくしてみたくなるのは分かる。
一方、犬だって猫に負けず劣らず我々人間に身近な愛玩動物である。
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昨日の日記「空を飛ぶ夢を叶えるには」では、飛行機や気球などの機械や大袈裟な道具を使わず空を飛びたいという人類の夢について呟いてみた。
その際、日記ではアメリカの大統領が昨日発表した、人類を火星にという構想に触発されて書いたかのような形になっている。
が、実際は違う。
← J・M・G・ル・クレジオ著『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)
それだけだったら、ちょっと興味深いニュースということでスルーしていただろう。
実は、今読んでいるJ・M・G・ル・クレジオ著の『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)の中の一節に接して、やや大袈裟な表現を使うと共感・同感し快哉を叫ぶという心境に突き動かされて書いたのである。
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小生は、西部開拓時代の、白人によるインディアン…先住民族の大虐殺を重ね合わせて読まざるを得なかったのだ。
→ Ernest Thompson Seton (drawing from 「100 Years of Illustration Ernest Thompson Seton 1860-1946」)
先住民族の地の利を生かした戦いも、白人の側の狡猾さと約束をことごとく破る卑劣さの故に、リーダーらも含め、大量虐殺の憂き目に遭ってしまう。
(同時に、都の貴族達に騙まし討ちに遭った、先住民族のリーダー阿弖流爲(あてるい)の悲劇をも重ね合わせて読んでいたのだった。北米大陸には、ロボに匹敵するような知恵のある優れたオオカミが複数居たらしいが、先住民族のリーダーも何人もの名前が史書に載っている。彼らもことごとく殺されていった。)
まさかこんな読み方、感じ方をするとは思いもよらなかった。
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ひょんなことから、とても懐かしい物語、シートン著の『オオカミ王 ロボ』を読む機会を得た。
昨夜半近くに読了した、ジョージ・エリオット著の『ミドルマーチ』を借り出し期間内に読みきれず、延長の手続きに行った際、隣りの児童図書の新入荷本のコーナーに本書を見い出したのだ。
← アーネスト・T・シートン 文・絵『オオカミ王 ロボ』(今泉吉晴 訳・解説 童心社) 「シートンがアメリカ・ニューメキシコのクルンパを支配するオオカミのロボに挑んだ壮絶な物語。シートンは、メスのオオカミ・ブランカに対するロボの深い愛情に感動と後悔を抱く。新しいシートン動物記第1弾!」だって。
手続きが順番待ちで手間取ったので、ぶらりと覗きに行ったら、そこにこの本があった、というわけである。
子供の頃、この物語を読んで、悲劇のヒーロー像に胸焦がれる思いをした、そんな遠い記憶がある。
憧れというわけではないが、孤高の、しかし心優しいヒーローのあまりに哀れな末路に思い入れを強くしてしまって、本の挿絵をせっせと真似て描いたものだった。
その絵は一つくらいは今も残っているはずである。
だから、読むというより、絵への懐かしみという気まぐれでついでのつもりで借り出したのだ。
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H・P・ラヴクラフト著の『文学における超自然の恐怖』(大瀧 啓裕【訳】 学習研究社 (2009/09/18 出版))を読んでいる。
間もなく読了できると思うが、ラヴクラフトの異名は聞き及んでいて、彼には期待していただけに、ちょっとガッカリの本。
← H・P・ラヴクラフト著『文学における超自然の恐怖』(原書名:Supernatural Horror in Literature 大瀧 啓裕【訳】 学習研究社 (2009/09/18 出版))
本の謳い文句には、「人類の最も古く最も強烈な感情は恐怖である!怪奇幻想文学の系譜を解析した代表的論考」とあるし、「「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説で有名」な作家とあって、それなりの論考なのだろうと期待して読んだのだが、論考もだが、本人の創作も、文章の緊密度が低いように感じられて、読むのが苦痛だったりした。
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