書籍・雑誌

2008/05/15

ハンス・ベルメール…球体関節人形

 ハンス・ベルメール(Hans Bellmer, 1902年3月13日 - 1975年2月23日)の存在を知ったのはいつのことだったか、今ではもう定かではない。

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← ハンス・ベルメール『哀れなアン』(1968年、1948年制作のデカルコマニーのフォトグラビュール、ed.200、35.5x27.5cm) (画像は、「アート・遊 ハンス・ベルメール」より)

 何かの美術書(澁澤龍彦だったかな)の中でその名を目にしたような、それともジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』の挿画(小生が初めて作家の全集を入手したのは古書店で見つけたバタイユ全集で、これは今も古い書棚に温存されている)で既に脳裏に彼の世界が焼き付けられていたような気もする。

 が、小生の肉髄に強く印象を刻まれたのは、何処かの古書店でハンス・ベルメールの画集…というより写真集を手に取ったときだったのは間違いない。

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2008/04/06

死の画家ティスニカル(1)

 夜はアルバイトで、帰宅が夜中の三時前後。洗い物したり、茶の間の片付けしたり、チラッとネットを覗き、本を片手に四時ごろ就寝(ほとんど読めず)。
 朝は八時過ぎに起きて、また三食の準備やら片付け、買物、掃除、合間にネットと居眠りと本(久しぶりにフロイトの文学論・芸術論……やはり疲れていて読めない)。
 近所でバードウォッチングと洒落込みたいが、庭先に来たスズメを撮るのがやっとの惨状である。
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→ 「全日本チンドンコンクール」 今日(6日)で終わる。

 昨日の午前はトイレ掃除。この前は男子用トイレ。今回は大のほう。小生が用を足すたびトイレットペーパーで拭いたり、ブラシで擦ったりしていた。それで十分かなと思っていた。
 油断だった。甘かった! 快晴の日中の明るい光が入り込むと便器(ウォシュレット)の汚れが目立つ!
(ちなみに、ここだけの話、我が家にウォシュレットが設置されて、帰郷する楽しみが増えた! と思ったものだった。癖になりそう(癖になっている人、異次元の悦びに目覚めた人もいるんだろうなー))。

 せっせせっせと洗いましたとさ。
 誰にも気付かれないけど、まあ自己満足。
 親戚の者も来るし、トイレは綺麗にしておかないと。

 こんな日々が続く中、ネットでの美を求めてのサーフィンがほとんど唯一の息抜きであり楽しみである。バッハやショパン、モーツァルトのCDを聴きながらってことが多い。
 たくさんあった音楽テープやレコード盤は、引越しの際、全て捨ててきた。
 カセットも本も何も当分、買えそうにない。十数枚のCD(半分はサンバ関係)だけが友であり頼りである。

 さて、閑話休題。本題に入ろう。

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2008/03/21

ルイス・ウェインの猫(その1)

 郷里に出戻りして、生活のスペースを確保する意味もあり、本や雑誌を含めて家の中の不用な諸々をドンドン廃棄している。
 一応、東京から持ち帰った荷物は整理までには至らないものの、とりあえず廊下の隅っこやら納屋などに蔵置はできた。

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→ Louis Wain "Ginger Cat" - c,1932, Crayon, 9 x 7 ins (画像は、「Henry Boxer Gallery presents Louis Wain」より) 

 となると、片っ端から捨てていた古い本だが、段々捨てるのが惜しくなる。
 古い本の山が崩れていってしまうと、はて、引越し荷物の収納も暫定的ながら済んでいるのに、これ以上なにゆえ捨てる必要がある…などと思えてきたのである。

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2008/03/12

川原慶賀…シーボルトの眼 ? !

 小田野直武の画像や情報をネットで探したが、平賀源内ら誰彼の関連での記述は散見されても、小田野直武本人についての情報はなかなか見つからない。
 その過程で、司馬江漢の名が散見されるので、今日は彼の周辺を巡ってみるかなと思い始めていた。
 すると、思いがけず久しぶりに川原慶賀なる名前に遭遇。

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← 川原慶賀筆 『長崎港図』 (画像は、「神戸市立博物館」より) 「出島や長崎の市街を左手前に、長崎港からはるか港外まで望んだ鳥瞰(ちょうかん)図である。長崎の北方金比羅山あたりから写生したものであろう」という。また、「慶賀(1786~?年)は、出島出入絵師となりシーボルトに見出され、その著書『日本』の挿絵を描いた。慶賀の作品だけが、当時オランダへの持ち出しを許されていた」。「川原慶賀の見た江戸時代の日本1」を覗けば、違う彩色の『長崎港図』を見ることができる。

神戸市立博物館」が小田野直武作品を所蔵しているという情報があったのだ。
 が、「神戸市立博物館 2007年度 主要所蔵品の展示について」なる頁をツラツラ眺めていたら、「川原慶賀筆 長崎港図・ブロンホフ家族図」が惜しくも昨年の秋にあったことを発見したのである。

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2008/03/07

モンドリアン(追記1:世界を干拓する描写)

ピエト・モンドリアン(後篇:抽象性に宇宙を見る)」において、小生はややモノローグ風に以下のようなことを書いている:

 オランダ生れのモンドリアンがパリへ出たのは案外と遅い。39歳前後。チーズ、チューリップ、風車で有名なオランダだが、同時に、リベラルな気風や風土、そして「堤防により囲まれた低地」という土地柄もモンドリアンの画風の基本にあるような気がする。

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→ Floris Claesz van Dijck(1575-1651) 『チーズとバターと果物のある静物画』(部分図 1613) (画像は、「Floris Claesz van Dijck - Wikipedia」より) 「食物を口にし消化することが象徴する消費一般をいおうとしている。もっともこれはどちらかといえば貧しい人間のテーブル風景である。切られていない果実ですら、茎からちぎられてできるくぼみがこちら向きになるように置かれていて、中をのぞける感じを与える。ガラス器も中が透けて見える」(タイモン・スクリーチ著『江戸の身体を開く』より)

 大方の(?)日本人が抱いている…大地という感覚はオランダ人にはあるのだろうか。

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2008/02/11

「天体の図像学」の周辺

 藤田治彦著の『天体の図像学』(八坂書房)を読んだ。
 感想文を書く余裕はないので、実に羨ましい機会に恵まれた片のブログ記事を参照する:
I my me gallery blog 「天体と宇宙の美学」展(滋賀県立近代美術館)その2……講演会「天体の図像学」

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← 『天体と宇宙の美学』展ポスター 07年秋に開催されていた。(画像は、「sLab 銀猫亭 天体と宇宙の美学」より) 「滋賀県立近代美術館」によると、「地球上の生命の源である太陽。満天の夜空に輝く星と月。広大無辺の空間に漂う銀河系。人間の魂を魅了して止まない宇宙の謎と神秘は、美術の中にどのように表されてきたのでしょうか。天体や宇宙をテーマにした様々な美術作品の中に、芸術家たちが思い描いた宇宙像や夢を探ります」という。

 藤田治彦著の『天体の図像学』(八坂書房)は、内容紹介によると:

古代ギリシア・ローマから20世紀モダン・アートに至るまで、ヨーロッパだけでなく西アジアや新大陸までを視野に置きつつ、太陽・月・星・地球などの天体が、絵画や彫刻などにどのように描き表わされてきたかを、200点以上の豊富な図版でたどり、独自の鋭い視点で考察する。

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2008/02/10

ジョン・ラスキン追記

 拙稿「ウィリアム・ターナー(後篇:悲劇のロマン派画家)」は、決してラスキンを扱った文ではないのだが、たまたまこの稿をアップしようとしたとき、ジョン・ラスキン著『風景の思想とモラル―近代画家論・風景編』(内藤 史朗【訳】 (京都)法蔵館)を読み終えた直後で、(期待が過大だったせいか)本書に失望し、ややラスキンを貶めるかのような記述を末尾に付け足してしまった。

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→ ジョン・ラスキン 「早くから聖書と詩にめざめていたが、少年ラスキンをとりこにしたのは鉱物だった。天保2年の12歳のころ、鉱物に熱中して一人で鉱物事典を自作している」という。(文章・画像ともに、『松岡正剛の千夜千冊『近代画家論』1・2・3 ジョン・ラスキン』より)

 が、彼の描く絵は断固、素晴らしい(称揚し擁護したターナーには比べるべくもないが)。
 中途半端なままにラスキンほどの人物を通り過ぎるわけには行かない。なので、本稿で若干の補足を試みるものである(無論、彼の全貌など小生には到底、展望しきれるはずもない)。

 ラスキンについては、「空と山を眺め描くのみ…ラスキン」の中で、幾つかの作品を載せつつ多少の紹介を試みている。
 是非、ラスキンの手になる作品を見てもらいたいものである。

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2008/01/25

反骨の浮世絵師 英一蝶

[「鳥総松(とぶさまつ)」(2005/01/06)から英一蝶(はなぶさいっちょう)についての記述部分を抜粋する(但し、一部改稿の上、画像と追記を付した)。本稿に飽き足らない方は、「美の巨人たち 英一蝶『布晒舞図』」を読むとよかろう。(08/01/25 アップに際し付記)]

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← 英一蝶・画『雷神』 (画像は、「英一蝶 - Wikipedia」より)

 榊原悟著『日本絵画の見方』(角川選書)の中で、日本の伝統的な絵画作品を見る上で、様式や画題、描かれる素材(紙か板か、それとも絹などか)などと共に、描く素材を見極めるのも大事だという話の流れで、英一蝶(はなぶさ・いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))のことが話題の俎上に登っていたのである。

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2007/12/28

アルトドルファー追記

 サイモン・シャーマ著『風景と記憶』(高山 宏・栂 正行【訳】 河出書房新社)を昨夜からボチボチ、読み始めている。

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← ヴェステルボッテン River Byske, Vasterbotten (画像は、「ヴェステルボッテン(スウェーデン) 壁紙」より) 手付かずの原風景、であるかのような…。

 内容紹介によると、下記の通り:

原初の森に分け入り、生と死の川をわたり、聖なる山々に登る―人間は風景をどのように見、創りあげてきたか。これまでの歴史学の手法をすべて捨て去り、大いなる小説を読む感動を与える風景論の名著、ついに刊行。
第1部 森(リトアニアのバイソンの地にて;林道―森を抜ける道;緑林の自由;緑の十字架)
第2部 水(意識の流れ;血また流れる)
第3部 岩山(デイノクラテスとシャーマン―高さ、至福、そして崇「高」;垂直の帝国、脳髄の深淵)
第4部 森と水と岩山(再びのアルカディア)

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2007/03/29

『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記』をめぐって

 十数年も前に買って、初めて読んだのは数年前だったろうか。本書、『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記 上』(杉浦明平訳、岩波文庫刊)は、読むのに難しいわけではないはずなのだが、実際には、読みきるのはとても難しかった。
 数年前に読んだ時も、無理矢理読み通した記憶がある。中身はほとんど頭に入らなかった。しかも、読んだのは上巻だけ。

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← 『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記 上』(杉浦明平訳、岩波文庫刊)

 上巻は、序に加えて、人生論、文学、「絵の本」からを、下巻は、科学論、技術、手紙とメモを収める。
 例によって出版社の謳い文句を:
「ルネサンスの偉大な芸術家,科学者であったレオナルドの手記.上巻には『人生論』『文学論』『絵画論』を,下巻には『科学論』を収める.そこには人生に対する箴言あり,寓話笑話文学に対する批評あり,「モナ・リザ」の絵を生みだした陰影と遠近法の研究や『解剖学』などの科学記録もある.彼の偉大さはすべて本書の中に圧縮される.」

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2006/12/04

中島敦著『南洋通信』

[本稿は、メルマガ(02/12/05)にて公表済みの拙稿である。ホームページかブログに載せたはずだったが、見当たらなかったので、念のため、ここに載せておく。ダブっていたら恥ずかしいが…。(アップ時追記)]


 必ずしも長くはない本書・中島敦著『南洋通信』(中公文庫刊)を一週間あまりを掛けて読んだ。
「中島敦は,昭和16年6月パラオ南洋庁国語編修書記に任ぜられ、日本政府の皇民化教育の方針に添った日本語教科書編纂のためにこれらの島々をめぐる旅に出発し」た。
 『南洋通信』は、その際、中島敦が国の妻や息子達に贈った手紙や葉書などの通信を纏めたものだ。
 本書の紹介は下記のサイトがいい。通信の雰囲気も分かるし、通信の中の印象的な文章も引用してある。また、中島敦が乗ったパラオ丸という船の写真も見られる。上掲の、「」内の引用も同サイトからである:
ぱらお丸 デジタルミュージアム インターネット博物館 教科書 デジタルライブラリー 中島敦 南洋通信 三輪祐児
 
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→ 中島敦著『南洋通信』(中公文庫刊、中央公論新社)

 ただ、本書で残念なのは、中島敦はただ、葉書を書いたのではなく、彼自らが描いた絵で絵葉書に仕立てている。その絵がまるで見られないことだ。文庫本の限界なのかもしれないが、ちょっとというより、かなり残念であった。
 小生は、たまたま県立神奈川近代文学館で開催されていた『中島敦展』を見てきて、その中で展示されていた中島敦自筆の絵葉書を見る機会を得ている。

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2005/05/01

有島武郎著『生まれ出づる悩み』

 今、小生は松本清張のマイブームで、彼の本、彼についての本を読んでいるが、彼についての大部の本を読了したので、何か次の本を探そうと近所の小さな書店に立ち寄った。けれど、めぼしい本がない。ほとんどが読んだものばかりなのだ。
 仕方なく、昔、清張全集の中で読んだ古代史関連の本(「清張通史 邪馬台国」)があったので、それを一冊、選んだが、ちょっと物足りない。
 けれど、一層、漫画の本や雑誌や実用書に占領されつつある書店では、小生の嗜好に合う本などあるはずもない。こういう時は古典乃至は昔読んだ本を再読するに限ると、その時は、有島武郎の「生まれ出づる悩み」が目に飛び込んできた。もう、三十年ほど前に読んだものだ。
 昔、読んだ「生まれ出づる悩み」は、同じく文庫本だったが、もっと薄っぺらだったと思っていたら、小生が買った角川文庫版は、短篇集だった。

 有島武郎というと、なんといっても「或る女」である。これは彼の最高の作品というにとどまらず、明治以降の文学作品の中でもトップクラスの作品だという評価が自分の中で定着している。モーパッサンの「女の一生」も良かったが、女の一生を男性作家が描いた中では、秀逸な作品なのだ。

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2005/04/23

秋山 弘之著『苔の話』(1)

 昨日から秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めている。図書館で書棚をざっと眺めて回っていて、パッと目に飛び込んできたので、即、手に取った。
 それほどだから、小生は苔に興味がある…のかどうか分からないが、既に手には借りられる冊数の本を抱えていたのに、一冊を棚に戻して本書を代わりに借りることにしたほどだから、その行動からすると、興味がないとは言えないはずなのである。
 読み始めているといっても、車中での待機中の齧り読みなので、まだ冒頭の辺りをうろついているだけだが、でも、楽しみつつ読めている。自宅では、スティーブン・レビー著『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)を読み出してしまったので、『苔の話』は車中で読みとおすことになりそうである。
 ちなみに『暗号化』は、「ハッカーに関する本などで有名なサイエンスライターのスティーブン・レビーが、インターネット時代の暗号技術を取り上げて、一般の読者向けに解説した、全体で500ページ近い大部な本である」ということで、エシュロンも出てきたりして、ひたすら好奇心で読んでいる。

 苔というのは、一般的にはそれほど人気のある対象ではないのだろう(と思われる。確かめたことはないので、断言はできない。もしかしたら、日本人だと密かに愛着して方が案外と多いのかもしれない)。
 苔など、下手すると、黴(かび)や錆(さび)の仲間扱いされかねない(掌編「黴と錆」参照)。
 が、日本のような湿気の多い、山も木々も多い土地柄だと、ともすると花や木々以上に馴染みのある生き物と言えるかもしれない。
 そもそも、「苔」という漢字自体が、苔の性質を表しているような気がする。小さくて目立たず、その存在を花を咲かせたりして大袈裟に自己主張するわけではない…そう、植物としては雑草と比べてさえも、とても無口な存在なのだ。クサ冠(カンムリ)にムクチと書いて「苔」と、名は体を現しているわけである(無論、これは小生の戯言なのだ。読んで、コケた方もいたりして)。

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2005/04/03

シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常』

 リチャード・E・シトーウィック著の『共感覚者の驚くべき日常』(山下篤子訳、草思社刊)を読んだ。
 本書については、小西聖子氏(東京医科歯科大学難治療疾患研究所被害行動学助教授 平成5年より同大学犯罪被害者相談室でカウンセリングを実施)によるがあるので、それを参考にしてもいい。
 まず、共感覚とは何か。
「共感覚とは、ある刺激を受けたとき、本来の感覚に他の感覚が伴って生ずる現象で、印刷された言葉や数字が色となって感じられたり、香りが形を伴ったり、話し言葉が虹色に見えたりする。」
 引用は下記のサイトから:
言葉や音に色が見える――共感覚の世界
 小西聖子さんの評にもあるように、「共感覚は直接的感覚で、自分で選択することはできない」
 何かの色を見ると、必ずある決まった形や色や音を思い浮かべてしまう。それは、強制的にそうなってしまうわけで、決して、当人は比喩表現をしているわけではない。
 実感を述べているのだ。
 その実感を言葉で表現するのは難しいので(実際に表現すること自体が難しいということと、そうした共感覚を持つ人は少ないという意味で)、常識的な感覚を持つ人には、奇矯な表現、衒った比喩を駆使しているかのような誤解を受けやすい。
 従って、従来は精神科や神経科へ相談に行っても相手にされなかった。何か精神的な問題を抱えているか、でっち上げているかとさえ思われたりする。何故なら、最新鋭の機器を使って検査しても、身体的な異常も徴候も何も見つからないので、治療の施しようがなかったのだ。
 あるいは、その前に、理解も診断も叶わなかったのである。
 音韻と感覚というと、すぐに思い浮かべるのは、アルチュール・ランボーあるいはシャルル・ボードレール、という人がいるかもしれない。小生もその一人だった。尤も、シトーウィックによると、ランボーやボードレール(詩『照応』)が共感覚の持ち主だったかどうかは分からないという。

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2005/03/27

「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』

 本書「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫刊)には、「逃げ切れない狂気、非情の13事件」という
副題が付いている。その内容については、このサイトの説明で十分だろう。
 目次も書いてある。
 同サイトから引用する:

事件は起きた瞬間、わーっと騒がれ、マスコミが食い散らかし、そして捨てられる。情報は溢れるほど存在するのだから、マスコミはよりセンセーショナルな事件を追いかけることになり、過去を振り返る余裕はない。しかし、被害者遺族にとっては、事件は大きな傷痕を残す。当事者にとって事件はいつまでも続く悪夢なのだ。犯人が逮捕されるまで、いや、判決が出るまで。いや、判決が出てからも悪夢は続くのだ。
                               (引用終わり)

 さらに、「ここに出てくる殺人者は、もしかしたら殺人を犯す運命から逃れられなかった人たちかも知れない。なるべくしてなった殺人者がいるかも知れない。しかし、被害者たちはなるべくしてひがいしゃになったわけではない。犯罪者と深いかかわりを持っていたものもいるが、無関係だったものもいる。いったい殺人とは何なのか。それを知るには、まず事件を、事件の痛みを知らなければならない。そのためには、このようなルポルタージュが必要されている。」というコメントは的確だと思う。

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2005/03/04

佐倉統著『進化論の挑戦』

 佐倉統(さくらおさむ)氏という名前で顔を思い浮かべられる方も多いのでは。
 小生の場合、テレビをあまり見ないし、ましてNHKテレビが映らないので、顔を見て、そういえばどこかで見たことがあるな…というものだった。
 彼は、NHK「サイエンスアイ」のコメンテーターを勤めておれらる(おられた?)方なのである。佐倉統氏については自己紹介があるので、そのサイトを参照願いたい。
 また、佐倉氏と同じ年に生れた解剖学の研究者を経て今は作家、編集者、果ては書店をもこなすという布施 英利(ふせひでと)氏との対談(「自然・人工・ネットワーク」)が読めるので、小生の下手な書評モドキの雑文より、そちらを小生としては推奨する。

 ネットで本書(角川文庫刊)を扱う書評を探したが見つからなかった。これから始めるのは、例によって小生風の印象書評と言うか、書評エッセイというか、ま、当該の本を踏み台にしての雑談である、多分。

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2004/12/15

「立花隆著『21世紀 知の挑戦』(続)

 本書の最後に「21世紀 若者たちへのメッセージ」と題された章がある。
 本書のために書いた文章ではない。ただ、「科学技術創造立国」を目指す日本として、立花氏が将来を背負って立つだろう若者たちへ贈るメッセージとして、科学技術への基礎的な理解をもっとしっかり持つべきだと語っており、本書の締め括りの章として相応しい内容だとして、収録されたのである。
 そのメッセージを贈るとして為された講演は、一つは「新人若手官僚に語る  科学技術創造立国なんてとんでもない」というもの。
 無資源国日本としては、科学技術で付加価値を高めていくことで生き残っていくべきなのに、現実には、ゆとり教育などにより、日本の国民全体の科学技術に対する理解の水準が低くなっている。その結果、日本の科学技術の研究水準そのものが低いままであると立花氏は熱く語っている。
 アメリカの大学では、トップレベルの大学では、理系・文系に関わらず全学生に分子生物学、細胞生物学を必修として義務付けている、などの例を挙げ、現状の格差が広まる一方であるという。
 今や、遺伝子研究を初めとするバイオ研究は国の浮沈を左右する分野となっており、そのことへの理解は必要不可欠のものとなっている。科学技術に関わる交渉を海外の国々と行うに際しても、常識レベルの底上げがない限り、交渉そのものが成り立ち得ない…。
 この講演は、若手官僚を一堂に会してのものであり、期日は短い。なのに、その貴重な会期をラジオ体操やジョギングに費やしているとは何事かと語る。危機感が感じられないということなのだろう。

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