経済・政治・国際

2005/11/26

井筒俊彦著『イスラーム生誕』

 イラク問題に限らず、イスラーム勢力の伸張はすさまじいものがあるようだ。
 下記サイトによると、「現在、世界人口の5分の1を超える13億人がイスラーム人口と推計されて」おり、しかも、「その3分の1は、中国、インドや欧米諸国を含む非イスラーム圏にマイノリティとして暮らしている」とか。

キリスト教とイスラーム-相互理解に向けて――イスラーム世界論 の観点か
ら    小杉 泰(京都大学)
」                      

 それだけの勢力や人口を有し、人口が爆発的増えているアラブ人の宗教であるイスラーム教のことを小生は、知らないに均しい。
 アラブというと、人によっては、加藤まさを氏の「月の沙漠」を思い浮かべる方もいるだろう:

 あるいはアラブというと、アラビアのおとぎ話集『アラビアンナイト』、特に、『シンドバッドの冒険』を読んだりアニメを見たりした記憶が、蘇る方も多いかもしれない。アラジンやアリババの物語なども、懐かしい。小生も挿絵の多い、活字も大きな本で夢中になって読んだことを思い出す。

 イスラム社会の<民主化>を目指すというアメリカ、そのアメリカ生れのディズニーランドが、アラビアンナイト的であり、アラビア的イメージに満ちているというのは、何か不思議な気がする。東京ディズニーシーなどは、謳い文句が「魔法と神秘に包まれたアラビアンナイトの世界」だったりする:

 小生にしてもアラブやイスラム社会についての認識はその程度で、遠い昔、中央公論社の世界の名著シリーズで『コーラン』を読んだことがあるが、当時、やたらと退屈した記憶があるだけである。
 イスラームということではないが、中東関連で、パレスチナで生まれ、少年時代を衰退しつつあった大英帝国による植民地支配下のカイロとエルサレムで過ごしたサイード著『遠い場所の記憶』を紹介したことがある:

 後は、刊行されて間もない井筒 俊彦著『イスラーム生誕』(人文書院)や井筒俊彦著『イスラーム文化』(岩波文庫)を読んだ程度だろうか。今回、書店で文庫本版の本書(中公文庫BIBLIO)を見かけたので、懐かしくなり手にとってしまった。

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2005/10/09

『私は、経済学をどう読んできたか』(5)

 前回、扱ったアルフレッド・マーシャルに続き、本書『私は、経済学をどう読んできたか』では、「二十世紀の経済学者たち」として、ソースタイン・ヴェブレン、ジョン・M・ケインズ、ヨーゼフ・A・シュンペーターらが採り上げられている。
 が、ここでは一気に著者であるハイルブローナーの「終わりに」へと飛ばせてもらう。経済学についての展望を彼に語ってもらいたいのである。
 マルクスに代表されるような、一国の中の社会政治的階級の命運を扱うような経済学と、マーシャルやケインズのように、個人という形のない集団の運命が扱われる経済学という視点、つまり、「前者のシナリオは社会秩序自体の変化の見通しを説明したのに対して、後者は所得分配の変化を説明はしても、相対的な階級関係の変化には触れない」後者は「階級の重要性ばかりかその存在さえ否定する傾向へと考え方が変わった」のだとした上で、ハイルブローナーは語る:

こうして見ると、経済学は社会研究という自己認識から、「科学」という自己認識へと徐々に後退の道を歩んできている。たとえばマーシャルが行き着いたのは、興味深いことに生物学であった。このことは、社会学的、政治的考察に対する関心が次第に弱まり、代わって分析の手法としてますます「モデル」が選択されるようになったことに表れている。適切な行動をする――主として最大化と最適化を行う――主体のみが、こうした学説では考察される。数学的説明ができないような諸力、たとえば非合理的な意思決定、盲目的な服従、無限の野心などは扱われない。当然のことながら、「有効性」――何にとって有効なのか――についての考察は、分析の必要条件としては下位に置かれる。全く同様に、経済政策は、説明の「厳密性」の追究よりも下位に置かれることになる。私がどこかで書いたことだが、もし火星からの訪問者が主流派経済学の学会誌を手にして、それを物理学の本と間違えても大目に見られることであろう。
このような壮大な説話に、予見可能な終着点があるのだろうか。「科学的」経済学の実践者が、時代遅れの教師にありがちな頑固さをもって現在の方法をそのまま追究し続けるのを想像することは、実に容易である。だが、予見することは難しいものの、もう一つの発展の道筋を想像することもできる。今日、資本主義システムは強力な技術、かつてない国際的な金融および投資の流れ、環境からの脅威の出現、そして高まる政治の不安定性などによって多くの困難にさらされている。こうした課題があればこそ、本書で明らかにしてきた政治経済学の伝統を再び蘇らせることが、やはり必要になると思う。  (p.535-6)

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2005/09/26

『私は、経済学をどう読んできたか』(4)

 アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall. 1842-1924)も、小生には、名前を聞いたことがある以外には、馴染みのない経済学者。まあ、ケインズを育てた、乃至は、ケインズが弟子であることを聞きかじっただけ。
 マーシャルの経済学者としてのモットーは、「冷静な頭脳(cool head)と温かい心情(warm heart)」なのだとか。  彼の生涯など、彼に付いての全般的なことは、下記のサイトを参照のこと:

『私は、経済学をどう読んできたか』の著者、ハイルブローナーによると、「経済思想の発展を学ぶ上でマーシャルが特に興味深いのは、(略)同時に二つの経済分析の手法を唱えている」点にあるという。
 「一つは明らかに限界理論の手法で、彼のなした貢献は極めて大きい。もう一つは、非限界理論、と言うよりは反限界理論とも言うべき、経済学を本質的に社会学的な、いかめしい言葉を使うなら道徳的な学問と見る考えである。」言うなれば、「科学が対象とする世界にはないような問題を抱えることにもなる」わけである。
「この道徳面の強調は『経済学原理』の最初のページに見られる」として、本書には第一章の序論が引用されている。ここでは、さらにそのほんの触りの部分だけを再引用する:

「経済学」は日常生活を営んでいる人間に関する研究である。それは、個人的ならびに社会的な行動のうち、福祉の物質的要求の獲得とその使用にきわめて密接に関連している側面を取り扱うものなのである。

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『私は、経済学をどう読んできたか』(3)

 経済学にも門外漢の小生は、一体、いつから経済学の世界に数式が導入されるようになったのか、数学的科学でなければならないと考えられるようになったのかを知らない。
 多くの学問が哲学から分離し独立していった。
 独立するだけではなく、哲学との違いを際立たせるかのように物理学(や数学)をお手本に科学的たらんことを志向しはじめた。
 科学的とは観察と分析に基づく厳密な理論構成ということだけではなく、端的に数量化という発想の導入を実質的には意味していた。現実を単純化したモデルに還元し、幾つかの要素を分離析出して数値化可能にして、やがては、素人が横から盗み見ると、物理学か何かのテキストであるかのように数式と数値が並ぶようになった。
 心理学も、文学でさえも、一部は軽量化されているし、経済学もその趨勢からは無縁ではなく、むしろ、一部の経済学者には経済学こそ数学的科学たりえる学問なのだと見なされたりしてきた。

 数学化を行った最初の一人が、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835-1882)であり、1871年に出版された彼の『経済学の理論』は、「経済思想の新たな転換を告げる一大事件であった」という。

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『私は、経済学をどう読んできたか』(2)

 ハイルブローナーの本は、前稿でも書いたが経済学の歴史に貢献した高名な面々の文章がたっぷり引用されている。
 今回は、マルクスとベンサム(の一部)の項を読んだ。
 カール・マルクス/フリードリッヒ・エンゲルス共著の『共産党宣言』からも引用されているのだが、その第一章の末尾の「……工業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結合による労働者の革命的団結を作り出す。だから、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらがそのうえで生産し、また生産物を取得する土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘り人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である。」は、あまりに願望の念の濃い洞察だったのだと、懐かしさと悲しさを覚えたりする。
 この溌剌としたというか、勇ましいというか、勇み足気味の結語は、一体、マルクスとエンゲルスのどちらの主張が込められているのか。
[『共産党宣言』の全文を、以下のサイトで読むことが出来る(永江良一訳)]

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『私は、経済学をどう読んできたか』(1)

 経済思想史家のロバート・L・ハイルブローナー著『私は、経済学をどう読んできたか』(中村 達也/阿部 司訳、ちくま学芸文庫)をボチボチと読んでいる。
 経済学の形成の歴史に預かる著明な人物の思想や発想を、できるだけ本人の言葉を引用する形で、但し著者の鋭いコメントを付しつつ、説明してくれる。
 最初に念のため、本書の裏表紙に書いてある紹介を引用しておく:

経済思想の興隆と転換に興味を持つ読者を、偉大な経済学者自身の著作そのものへと案内する名著。『聖書』に始まり、商業革命・古典派経済学・限界効用学派などの変遷を辿って、ケネー、アダム・スミス、カール・マルクス、マーシャルからケインズ、シュンペーターに至るまで、経済思想の系譜を主題に、自らが意図した「壮大な説話」を紡ぎ出した物語学説史といえる。熟達した歴史的洞察と明晰な思索により、経済学に何を期待すべきかについて、ときにユーモアを、ときに辛辣な皮肉を交えた原典への寸評を通して語る。

 経済学には特に疎い小生には、何を読んでも啓発されることばかり。とにかくいきなり聖書からの引用が冒頭に来るのは驚いた。

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2005/09/11

ハイルブローナー著『私は、経済学をどう読んできたか』

原題:「経済学の土台としての人間洞察…(04/02/20)」

 経済思想史家のロバート・L・ハイルブローナー著『私は、経済学をどう読んできたか』(ちくま学芸文庫)をボチボチと読んでいる。経済学の形成の歴史に預かる著明な人物の思想や発想を、できるだけ本人の言葉を引用する形で、但し著者の鋭いコメントを付しつつ、説明してくれる。
 経済学にも疎い小生には、何を読んでも啓発されることばかり。とにかくいきなり聖書からの引用が冒頭に来るのは驚いた。
 ところで、今はアダム・スミスの項を読んでいる。恥ずかしながら、小生は彼の『国富論』は読んでいない。大学に入って間もない頃、同級生の某が今、『国富論』を原書で読んでいるなんて言うもので、その彼の気障振りが気に食わなくて、坊主憎けりゃ袈裟まで…で、『国富論』は読まないままに来てしまった。
 恐らくは書店で立ち読みくらいはしたはずだが、ついに入手はしなかった(小生の場合、入手イコール読むということ)。
 ま、これは小生の怠慢の言い訳に過ぎない。
 今、上掲書でアダム・スミスの諸著からの引用文などを読んでいるが、読んでいて、経済学といいながら、実のところ社会分析であり人間観察であり、その上での経済という切り口からの社会への洞察なのだと感じた。
 彼の時代においても顕著に進んだ産業の高度化、それに伴う分業システム。その対比での農民の生活や仕事振りの分析。
 学生時代、カール・マルクスの短めの諸著や、特に『資本論』などを読み齧ったけど、そこには鋭い、しかし骨太の社会諷刺と批判があり、人間への共感の念があって、読み応えがあったことを思い出した(なのに、『資本論』は訳書の第一分冊の冒頭の百頁を読んだだけ)。
 とにかくほんの一部だろうが、国富論の文章に接して、これなら読んでみたいと思わせてくれた。歴史に残る本は、経済学にあっても、結局は社会や特に人間への洞察に光るものがあるからなのだと、改めて思う。
 ところで、では、近代以降の経済学はどうなのだろう。高度な数式が駆使されている、その裏にはどんな人間への理解が前提されているのだろうか。それとも人間不在? そんなことはないと思いたいけれど。

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J・M・クッツェー著『夷狄を待ちながら』

 著者であるJ・M・クッツェー(J.M.Coetzee(1940- ))は、昨年度のノーベル文学賞の受賞者。本書『夷狄を待ちながら』(土岐恒二訳、福島富士男解説、集英社文庫)は数々出ている彼の本の翻訳で、唯一の文庫本のようである(だから手が出せた)。
 クッツェーは、「南アフリカのケープタウンの生まれ。彼にはボーア人(オランダ系の南アフリカ移住者)とイギリス人の血が流れている」という:

 彼には共にブッカー賞を受賞した『マイケル K(1983)』や『恥辱』がある。
 表表紙には、M・エルンストの『荒野のナポレオン』が掲げられている。
 さて、タイトルの『夷狄を待ちながら』からは多くの方が有名なタイトルを連想されるだろう。そう、『ゴドーを待ちながら』である。『夷狄を待ちながら』の原題は、『Waiting for the Barbarians』で、「the Barbarians」をどう訳すかを別にすれば、ほぼ直訳なのである。
 本書(文庫本)の裏表紙の謳い文句を引用すると、「静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄に通じていると疑いをかけられ拷問に……。」とある。

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2005/08/29

高橋哲哉著『靖国問題』

 遅まきながらではあるが、高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書 532)をようやく読了。というか、読み始めたら一気だった。図書館からようやく借り出せたというのが正確な事情説明になるか。
 本書の内容は、今も売れ続けているし、話題の書でもあるから、知られているだろう。
 本書のカバーに細かな文字で表記されている一文を転記する:

……「お国のために死ぬこと」や「御天子様のために」息子や夫を捧げることを、聖なる行為と信じさせることによって、靖国信仰は当時の日本人の生と死の全体に最終的な意味づけを提供した。人々の生と死に最終的な意味づけを与えようとするものを「宗教」と呼ぶならば、靖国信仰はまさしくそのような意味での「宗教」であった……

 著者である高橋 哲哉氏の略歴は、「1956年福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。二十世紀西欧哲学を研究し、哲学者として政治・社会・歴史の諸問題を論究。明晰な論理と批判的思考には定評がある。NPO「前夜」共同代表として、雑誌『前夜』を創刊」とか。
 小生は、わりと最近になって著者の『戦後責任論』(講談社学術文庫)を読んだ。この本についての小生の感想は→ココ
 まあ、今、旬の書き手の一人ということになろうか。

 さて、高橋哲哉著『靖国問題』については、「アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動」なるサイトの「注目の本、パンフレットなどの紹介コーナー」で目にすることのできる書評「書評『靖国問題』高橋哲哉」(2005年5月9日 木村奈保子)が丁寧である。
 書評と銘打っているが、冒頭に、「「靖国」とはいかなる問題なのか。この本は小泉首相の靖国参拝をきっかけに再浮上した「靖国」という問題を、感情、歴史認識、宗教、文化、そして国立追悼施設の各方面から解き明かす好著である。以下、著作にそってその内容をかいつまんで紹介したい」とあり、一読すると、実質、まさに「著作にそってその内容をかいつまんで紹介し」ているに止まると言えそうな気がする。
 ただ、それだけに、本書の概要を伺う一助にはなるかもしれない。

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2005/08/18

平和のリアリズム…

 今、政治に関係する本を二冊、並行して読んでいる(ほかに、フリーマン・J. ダイソン著の『ダイソン博士の太陽・ゲノム・インターネット―未来社会と科学技術大予測』(中村 春木/伊藤 暢聡訳、共立出版)やジャン=クリストフ・リュファン著の『ブラジルの赤』(野口雄司訳、早川書房)も並行して読んでいる)。
 一冊は、徐 京植著の『ディアスポラ紀行 ―― 追放された者のまなざし ――』(岩波新書)でレビューによると、「生まれ育った土地から追い立てられ,離散を余儀なくされた人々とその末裔たち,ディアスポラ.自らもその一人である在日朝鮮人の著者が,韓国やヨーロッパへの旅の中で出会った出来事や芸術作品に,暴力と離散の痕跡を読み取ってゆく.ディアスポラを生み出した20世紀とは何であったのかを深く思索する紀行エッセイ」とある。
 もう一冊は、藤原 帰一著の『平和のリアリズム』(岩波書店)で、カバーの見返しには、「全面核戦争の脅威の終焉に安堵した世界は、いままた新しい戦争の時代に突入した。各地で火を噴く地域紛争、高揚するナショナリズム、民主化後の政治不安、そして、テロと帝国の暴力……。著者は、この不透明な世界に対してたえず冷徹な分析を行い、リアルな平和構想を打ち出してきた。冷戦の終焉からイラク戦争に至るまでの粘り強い思考の成果を初めて一冊に収めた待望の時論集」とある。

 奇しくもというべきか、昨夜、ラジオ深夜便で、音楽プロデューサーの中野 雄氏へのインタビューという形で「政治学者・丸山眞男から学んだこと」というテーマで話を聞くことが出来た。
 まあ、例によって仕事の最中だったこともあり、断片的に聞きかじっただけだが、政治関連の本を読んでいたこともあり、特に今、その書を手にしている藤原 帰一氏のことを思い浮かべながら、あれこれ思っていた。

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