芭蕉に「何もないっちゃ」と答えたわけは
← 堀田善衛著『若き日の詩人たちの肖像 〈下〉』(集英社文庫) 「“しかと定めもつかぬ颶風が荒れ狂い、その風の吹くまま”右へ左へ流されてゆく若者たち。荒涼たる時代の空間をえがきだして、戦中の暗い時間の中に成長する魂の遍歴の典型をつくりだして、青春の詩と真実を生き生きと伝える自伝長篇完結篇」。
堀田善衛著の『若き日の詩人たちの肖像 〈下〉』を今日(日曜日)から読み始める。実に面白い。いろんな意味で筋金入りの人物だ。
富山県では、遅まきながら観光に力を入れている。
一度、県が主催する観光のセミナーに出たことがある(会社からの命令で)。
その場で県知事が強調したことがあった。
芭蕉さんは海沿いに氷見を目指そうと地元民に道を尋ねたところ、彼らは「なーん、何もないっちゃ」と答えたというエピソード(?)を披露した。
芭蕉は、地元に句をひねるに相応しい絶景スポットを訪ねたのか、泊まるにいい宿の在り処を訪ねたのか、分からない。
なのに、地元民は何もないっちゃと答えてしまった。
そのせいなのか、芭蕉は富山をほぼ素通り。富山県内では芭蕉が句をひねった場所は話題になるような場所が乏しいというありさま。
知事が曰く、県外からの観光客に見るにいい場所などを聞かれたら、何もない、なんて言っちゃいけない。何処かしら情報を提供しないと、という話の流れだった。
さて、上記したように、芭蕉は、地元の人に、道を尋ねたのか、宿の在り処を訊いたのか、真相のほどは分からない。
ところで、小生は、昨日(日曜日)から、堀田善衛著の『若き日の詩人たちの肖像 〈下〉』を今日(日曜日)から読み始めた。
その中で、この話題に無縁ではなさそうな、興味深い記述に遭遇した。芭蕉は新潟では、天屋何某という廻船問屋で泊めてもらった、なのに……ということで:
「奥の細道」を読みかえしてみてから、なぜ芭蕉さんは越後から一足飛びに加賀の金沢へ行ってしまったのかと(堀田だと思われる主人公が彼の祖母に)訊ねると、お婆さんはこともなげに、 「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと越中は京のテイモンが多かったんや。うち(堀田の実家は氷見の廻船問屋)もそうじゃった」 と答えた。テイモンは、京都の貞徳の門、松永貞徳の流れ、ということであった。(本書p.23-4 以下、略)堀田の実家は、彼の子ども時代に没落するのだが、こういった会話が当たり前に交わされていたわけである。 富山(伏木)が、芭蕉より貞門の縄張りだったのかどうか、裏付けが求められる。
松尾芭蕉が奥の細道道中で詠んだ句の一句(「芭蕉句碑|観光スポット|とやま観光ナビ」より):
早稲の香や分け入る右は有磯海
(「芭蕉に「何もないっちゃ」と答えたわけは」(2018/11/06)より)
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