ボク ペノベックの猫を眺める
ボクは猫を眺めていた。ベランダの手摺に凭れて、息を潜めるようにして、 猫を眺めていた。
猫の奴は眺められるのに馴れている。それとも、ただ、ボクに無関心なだけ なのかもしれない。
← エンドレ・ペノベック(Endre Penovác)作 (画像は、「Watercolor Cats by Endre Penovac «TwistedSifter」または「Cats Fluffed Up Through Smudged Ink and Watercolor Paintings - My Modern Met」などから)
でも、そんなんことはどうでもいい。大切なことは、猫を眺められる、心行 くまで猫の姿を楽しんでいられるという、そのことだ。
猫の奴は、って、あいつがオスなのかメスなのか、未だに分からない。
何しろ、近づいて触ってみたことがないんだから。尻尾を持ち上げて、その 辺りを調べれば分かるんだろうけど、いいんだ。オスだろうがメスだろうが、 猫には違いがないんだし。
そう、分からないから、その時の気分でオスだと思ったり、メスだと思った りする。
今は? 今は、きっと瞑想に耽る老いたオスの猫だ。
老いているのかどうかも、ボクには分からない。ただ、あの落ち着き払った 様子を見ると、人間だと悟りの境地に行ってしまったような年齢でないと、決 して得られないと思うのだ。
その猫が現れるのは、夜の8時頃と決まっている。何処かの庭先から、のっ そりと出て来る。時折、舌なめずりしているから、餌ももらい、食後の一服を 過ごしているのだと思う。
→ Endre Penovácは、セルビアの画家。
猫は、晴れた夜にしか見ることが出来ない。雨の日は、一体、どこに潜んで いるんだろう。それが目下のボクの謎だ。
そうだ、猫の奴は、晴れた夜、それも月の出た夜でなければ、その場所にや って来ないのだ。
だから、ボクは、奴は夜の月を愛でるために、そのブロック塀の曲がり角に やってくるのだと思っている。日中は、日溜りになっているから、その一角は、 熱が残っていて、きっと、ぬくぬくしているんじゃないかとも思う。
ただ、不思議なのは、月の出る晩に決まってやって来るにも関わらず、猫の 奴は、一端、鎮座すると、もう、月を見向きもしないことだ。目だって閉じた ままだ。全く身動きさえしない。
これって、寝ているってこと?
そうなのかもしれない。
← 水をたっぷり含んだインクを滲ませる手法のようだ。単色の水彩画風? あるいは、水墨画風と言うべきか。
でも、ボクは、猫の奴は薄目を開けて、思い出したように月の行方を追いか けているんだと思っている。月の動きは鈍いから、じっと眺めている必要はな い。そこが分かっているだけでも、猫の奴、賢いと思う。
ボクは飽きっぽい人間だと思う。というより、飽きっぽいものが人間なのか もしれない。猫だって、きっと、その点は人間と似ている。だから気が合うの かもしれない。
それでいて、妙に、物思いに耽ることもある。眠気とも、夢見心地とも違う、 何か不思議な瞑想の天使が舞い降りてきて、ボクを、そして猫の奴を、天上の 世界へ誘う。目も心もボンヤリさせておくと、そのうちに猫とボクとの二人だ けで、藍色の宇宙を漂っているような気になってくる。
いつか、夢の中で見たような海の底深くを潜っているような気分になる。ボ クの体がふわっと浮いて、猫と一緒に宇宙を旅する。
きっと、ボクに猫の持つ逞しい想像力があれば、宇宙の彼方へ旅立ち、数え きれない物語を体験できるんだろうけど、でも、ボクは臆病なんだ。想像の世 界でさえ、羽ばたくことができない。どこかにしがみついていないと目さえ開 けていられない。
もしかしたら、だからこそ、ボクは猫が好きなのかも知れない。猫の奴は、 きっと、薄目を開けて、幽冥の境をどこまでも漂っているに違いない。月の光 さえ、背中に浴びている。月さえ、奴の従者なのかもしれない。夜空に煌く星 々だって、そうなると、猫に脚光を浴びせる小道具に思えてくる。
→ たとえば、「嵐酔水墨画書道教室 東京・渋谷表参道-恵比寿で学ぶ水墨画と書の世界 ~Ransui's Sumi Art class 水墨写意で描く猫の絵」 あるいは、「welcome 猫の墨絵画家 中浜 稔」など参照。
青い月光が世界を別の宇宙へと変えている。昼間の世界が嘘のように思えて くる。誰一人、眺める人のいない、誰一人として邪魔する者のいない紺碧の海。
ああ、ボクに勇気があれば、昔の誰かのように銀河の鉄道を何処までも旅す るに違いないのに。
透明な藍色の闇に敷かれた軌道。その凍て付いた鉄のレールに耳を押し当て ると、向こう側の世界の響きを感じることができる。ここにいてさえ、ボクに はその懐かしい響きを聴いているように思える。
誰かに教えてもらった言葉が不意に耳の奥で鳴った。
私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ
猫の背中の柔らかき光の輪。産毛のような猫の毛。見えるはずもないのに、 息衝く猫のお腹が感じられてならない。あの猫の奴の背中を一度でいいから、 撫でてみたい。猫に寄り添って、猫の夢見ているに違いない夢を覗いてみたい。 この世の化粧を洗いざらい落として、素の自分を世界に晒してみたい。
そうだ、ボクは裸になりたいのだ。
こんなにもボクが好きなのに、猫の奴は、一度だってボクに関心を払わない。 そもそもボクがいることに気付いていないのかもしれない。
← 「Watercolor」にて、多数多彩な作品を鑑賞できます。
ボクの片想い。ボクの胸がどれほど熱いか、奴に教えてやりたい。きっと、 ボクの懐は、あの日溜りの名残しかない一角より暖かいに違いないのに。
ボクは、とうとう我慢がならず、猫の背中に触れようとした。猫の背中の和 毛(にこげ)に頬擦りしたくてならなくなったのだ。ベランダの手摺から身を 乗り出して、猫のほうへと手を差し出した。遠くて届くはずはないのに。
すると突然、綿帽子のような和毛が数本、猫の背中から抜けて、ボクのほう へ飛んで来た。そして、ボクの鼻をくすぐったのだった。
ボクはくすぐったくて、つい、クシャミしてしまった。そして、勢いあまっ て、落っこってしまったよ。
(背景の文は、「猫 月を眺める」(03/06/06) より。絵を引き立てるための、ただの壁絵です。)
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