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2013/06/09

「幻の画家」橘 小夢を知る

 過日、食事しつつ見ていた「お宝鑑定団」で紹介された「橘 小夢」の画に興味津々。
 小生には初耳の人物。

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← 橘 小夢作「水魔」 「三省堂で開催された第一回版画作品個人展覧会に出品した後、内閣省から発禁処分を受けた」とか。 (画像は、「お宝鑑定団 橘 小夢 - 脳内写生:ご異見版」とか)

 番組で紹介された作品は、橘小夢 (たちばなさゆめ)の初期の作品とかで、後年のいかにもというような妖艶さはない。
 しかし、目元の表現の妖しさ、行燈の表現の独特な幽玄は、彼の資質を示している。

 橘小夢 (たちばなさゆめ)のプロフィールは以下(「橘小夢 とは - コトバンク」より):

1892-1970 大正-昭和時代前期の挿絵画家。
明治25年10月12日生まれ。洋画を黒田清輝(せいき),日本画を川端玉章にまなぶ。雑誌や小説の挿絵を中心に,版画,日本画を手がける。民話,伝説をモチーフに女性の魔性を表現,たびたび発行禁止処分をうけ,「幻の画家」とよばれた。昭和45年10月6日死去。77歳。秋田県出身。本名は加藤凞(ひろし)。

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→ 「橘 小夢 展」(93年に催されたとか) (画像は、「画家 橘小夢のこと 裏うらなか雑記」より)

 以下、「恵比寿新聞 幻の画家「橘小夢」の原画が恵比寿にあった」より一部、転記:

橘小夢氏の生まれは秋田県。父は漢学者で「秋田魁新報」の創設時の発行人として活躍する家系。そんな父の影響を色濃く受けていたそうです。

しかし幼少の頃から病弱であまり外では遊べない子だったそうで乳母から諸国の民族伝統の話や奇談物語を子守唄のように聞いて育ったそうです。

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← 橘 小夢作 「押絵と旅する男」(江戸川乱歩)への挿絵 (画像は、「画家 橘小夢のこと 裏うらなか雑記」より)

 さらに、「恵比寿新聞 幻の画家「橘小夢」の原画が恵比寿にあった」より一部、転記:

その後母が死去。16歳の時に東京へ上京。麹町に住み洋画家黒田清輝に絵を学びその後日本画の川端玉章に学ぶ。この頃から作家が画家かと進路を迷うが画家を志す事を決意。

17歳で自作の和歌をまとめた「夢」を発表。その後挿絵や雑誌の表紙を描くようになり「淑女画報」や「女学世界」などの当時の流行りの雑誌の表紙などを手掛ける。

31歳で「さゆめ選書集」を発行。この時「嫉妬」という名画が生まれる事になります。

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→ 橘 小夢作「玉藻の前」(大正末の作品) 「御簾(みす)の影が狐になってい」る…。 (画像は、「弥生美術館・竹久夢二美術館 ブログ 開運なんでも鑑定団に橘小夢の作品が登場!」より)

恵比寿新聞 幻の画家「橘小夢」の原画が恵比寿にあった」には、橘小夢が残した言葉を紹介してくれている:

静かに目を瞑って、闇に咲く花を見つめるような心持で
自分の画を想う時ほど、私の幸福な時はない。
幼い頃、子守唄のように聞いた物語は、いまでも私を
夢の国へと誘ってくれる。荒んだ淋しい世間を離れて
諸国の伝説や物の本の種々相を見い出し、一人幻を書く時
私の魂はよみがえる。幻を描く時にのみ、私の心は忘我の境にさまよう。

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← 橘 小夢作「刺青」 「谷崎潤一郎の同名の小説に題材を得た作品」だとか。谷崎の(ほぼ)処女作。背中に女郎蜘蛛の入れ墨の彫り物。 (画像は、「弥生美術館・竹久夢二美術館 ブログ 幻の画家・橘小夢作品から「刺青」を紹介!」より)

 谷崎潤一郎 「刺青」 のあらすじ:

刺青師清吉には、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を彫り込むという年来の宿題があった。
彼の心に適った女を捜し続けた四年目の夏の夕べ、駕籠(かご)からこぼれた白い足を目にし、その持ち主こそ求め続けた女であることを確信するが、駕籠はいず方ともなく去ってしまう。
翌年の春半ば、偶然駕籠に乗っていた娘が彼の家へ訪ねて来た。
清吉は娘に二本の巻物の絵を見せ、「これはお前の未来を絵にしたものだ」と告げる。
絵は今にも刑に処せられんとする生け贄の男を眺める暴君紂王の寵姫末喜を描いたものと「肥料」と題する若い女が桜の幹へ身を寄せて、足下の男たちの屍骸を見つめている図柄であった。
絵の女の性分を持っていることを告白し、絵を恐れて見ようとしない娘に、清吉は麻酔を嗅がせ、一昼夜をかけて娘の背中一杯に女郎蜘蛛の彫り物を仕上げる。
それは清吉の魂と全生命を注ぎ込んだものであった。
眠りから醒めた娘には臆病なところは微塵もなくなり、清吉に向かって「お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と言い放つ。
帰る前にもう一度刺青を見せてくれと頼む清吉の願いに応えて肌を脱いだ娘の背中は、折からの朝日を受けて燦爛と輝いた。

[千葉俊二・編 「別冊国文学 No.54 谷崎潤一郎必携」(学燈社)より引用]


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→ 橘小夢/画「牡丹燈籠」(昭和9年) (画像は、「弥生美術館・竹久夢二美術館」より)

 唯美主義的というか耽美主義的というか、美と愛に惑溺した挿絵画家。
 大正時代ならともかく、昭和の戦前戦中には不穏な画家扱いというのも分からなくもないが、戦後ずっと無名の存在だったというのが分からない。
 いずれにしろ、近年脚光を浴びてきたというのも当然な気がする。
 遅きにっ失するが、もっと世に知られていい存在だろう

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