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2013/03/09

画鬼・河鍋暁斎に驚倒!

 日本には北斎など世界に誇る絵師がいる。
 曽我蕭白や伊藤若冲など凄い絵師はほかにもいる。河鍋暁斎も断然、その一人。もっともっと知られていい画鬼である。

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← 河鍋暁斎「閻魔大王浄玻璃鏡図」 真実の姿を映し出すはずの鏡に、美しいままの姿が映って、びっくり仰天する閻魔大王らの面々! 暁斎ワールドパワー炸裂! (画像は、「河鍋暁斎 本画Ⅰ Kyosai01」より)

 一昨日から車中で、狩野博幸/河鍋楠美著の『反骨の画家 河鍋暁斎』(新潮社)を楽しみ始めた。
 実は、本書で彼の春画に感服した。
 その春画を紹介したかったのだが、いい画像が見つからず、断念。
 

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→ 河鍋暁斎「枯木寒鴉図」 (画像は、「河鍋暁斎 Kyosai」より) 「河鍋暁斎 Kyosai」にて、暁斎の作品を多数、見ることができる。なお、「明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」(栄太楼蔵)が「妙技二等」を受賞。暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたという」(「河鍋暁斎 - Wikipedia」より)。 

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← 河鍋暁斎「鯉魚遊泳図」 (画像は、「河鍋暁斎 Kyosai」より) 「明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号している。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている」など、例によって、「河鍋暁斎 - Wikipedia」が参考になる。

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→ 暁英(ジョサイア・コンドル (Josiah Conder))筆「百舌図」 (画像は、「河鍋暁斎 Kyosai」より) 「岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。墓石は遺言により暁斎が好んで描いた蛙を象っている」という(「河鍋暁斎 - Wikipedia」より)


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← 河鍋暁斎「山姥図」(下絵) (画像は、「河鍋暁斎 Kyosai」より) 「嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし安政2年(1855年)10月2日に起こった江戸大地震の時に仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」(玩具荘コレクション)によって本格的に世に出ることとなった」(「河鍋暁斎 - Wikipedia」より)

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→ 河鍋暁斎「髑髏と蜥蜴」(風俗鳥獣画帖) 当時の正統派である狩野派はもちろん、自家薬籠中だが、北斎や若冲の流れをこそ汲む暁斎なのである。 (画像は、「河鍋暁斎:夢のまた夢 孤高の天才画家:河鍋暁斎に驚嘆せよ - NAVER まとめ」より)


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← 河鍋暁斎 (画像は、「泣きたくなるほど、おもしろい 河鍋暁斎-近代に架ける橋-」より) 「公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館」に一度は行きたいもの。

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→ 河鍋暁斎「放屁合戦」 (画像は、「河鍋暁斎 錦絵 Kyosai05」より) 「 嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし安政2年(1855年)10月2日に起こった江戸大地震の時に仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」(玩具荘コレクション)によって本格的に世に出ることとなった」(「河鍋暁斎 - Wikipedia」より)

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コメント

私は鯉の絵が一番好きです。
見事としか言いようがありませんね。
タッチには、好き嫌いの別れるところがあるような…。
髑髏はキモい(笑)
いい絵を見ると、得した気分になります!

投稿: 砂希 | 2013/03/09 20:26

砂希さん

暁斎は、確かに「鯉」が得意でした。
墨絵、素晴らしいです。
筆さばきの妙にため息。

画のテーマは好き好きがあるのは当然でしょうが、彼の懐の広い世界は凄いです。

彼は権威の人ではありませんでした。
立派な城や屋敷の襖絵も描きましたが、庶民相手に、どんどん注文を受け、どんどん売りまくりました。
そうした側面が、芸術を高等なものと思いたい向きには、煙たく感じられ、彼の評価を下げてしまった。
でも、彼はそんなことは意に介さない。
そのこだわりのなさも大好きです。

投稿: やいっち | 2013/03/10 21:46

暁斉、記念館のホームページにもありますが、東京で展覧会が次々開催されます。
三井記念美術館、太田記念美術館等。
僕が暁斉凄いなと思ったのは、改修工事前の東京ステーションギャラリーで、国芳、暁斉、なんでもこいっ展だなる展覧会に於いてでした。
国芳も反骨の画家でしたね。
役者絵が幕府によって禁止されると、落書きに見立てて役者絵を描く。
ああいう精神は良いなと。

投稿: oki | 2013/03/11 22:00

okiさん

東京は、何でも観る機会が恵まれていて、いつもながら羨ましいです。

暁斎人気、高まっているようですね。
というか、今まで低かったのがなぜなのか、不思議なほど。

北斎も国芳も反骨、帰結のひと。
しかも、暁斎は、遊び心たっぷりの人。
雅味溢れる絵も素晴らしかったけど、庶民向けの漫画も自在に描いた。

その春画もいとわない自在ぶり、この道一筋ではないところが、高尚趣味の向きには敬遠されたのでしょうし、評価を下げた面もあったのでしょうが、小生などは、ただただ楽しませてもらうばかり。

投稿: やいっち | 2013/03/11 22:15

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