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2012/05/01

エロスの罠

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それと も絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを 持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前 にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸ってい るはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らさ れる。

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 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太 平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を 伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り 着ける。

 いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込ま れていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵ま れて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とば かりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実 は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのであ る。

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 どこまでも後退する極楽。どこまでも押し寄せる地獄。地獄 と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得 しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だ け。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦し むだけ。

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 何かの陥穽なのか。何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲 笑っているのか。そうなのかもしれないし、そうでないのかも しれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後 戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄 の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづけ る。

 明けることのない夜。目覚めることのない朝。睡魔は己を見 捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに 聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。 二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割ってい る。オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部 屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そう して…。

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 夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が 身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けな い夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし 尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければな らない。

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 我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽 くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化する ことによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、 原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始め る。宇宙の創始の時。あるいは終焉の祭り。

(挿入画像は、いずれもレオノール・フィニ作品。いずれの画像も、「 La galerie Minsky - Leonor Fini」から。フィニのことを知りたいなら、例えば、「 フィニ Fini 」や「 幻想画家の女王Leonor Fini - 『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど” 」など参照のこと。定番は、やはり、「 La galerie Minsky - Leonor Fini」! 尚、文章は、 拙稿『バタイユ著『宗教の理 論』』より抜粋。)

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