前田普羅のこと(前編)
恥ずかしながら富山出身の身でありながら、前田普羅の存在を知ったのは、つい最近のことである。
奥野達夫氏から、『青花堂(しょうげどう)』という小冊子(非売品)を贈呈していただいた。その直前に我がサイトが5万ヒットしたばかりだったので、そのお祝いに戴いたような、勝手な受け止め方をつい、したものだった。
小生が、前田普羅の存在を認識したのは、実にこの冊子を読んでのことだったのである。
さて、この「青花堂」という名称だが、これは、版画家の棟方志功が恩義を受けた石崎俊彦氏に呈した堂号である。この小冊子には棟方志功が俳句の雑誌『古志』(昭和22年3月1日発行)に寄せた一文「青花堂先生」が冒頭に載せてある。
この一文自体、紹介した文章なのだが、その末尾に、堂号を呈した経緯(いきさつ)が書いてある:
青花堂とは、青い花。たとへれば龍胆(冊子には旧字の表記)のやうな花が好きで藍甕のノゾキを一寸濃くした程度の色が好きだし、そのやうなシットリの気分がたまらないのです。僕に何かそのやうな気持ちを象徴した堂号をつけて下さい。
そう謂われて、私が記した文字が「青花堂」でした。
さて、棟方志功については有名だし、「太平洋戦争の末期から六年あまりを福光町で過ごし」たことなど、既に幾許かは紹介も試みてきた。
ここでは、この度、一周忌を迎える石崎俊彦氏に若干、触れさせてもらう。
同氏は、富山県は「福光町での棟方志功の最大の協力者だった」とも、本冊子には書かれている。永年福光図書館長を勤め、福光町が「棟方志功記念館愛染苑」を作った時も、事業を推し進める功労者であり同苑の運営の任にもあたったのである。
情景の棟方志功の一文には、棟方と同氏との関わりやエピソードの幾つかが書かれているのである。また、棟方志功の「版画巻もの」という福光時代独特の方法で刻まれた版画集の刷りを、すべて若き日の同氏が引き受けている。
同氏の功績は数々あるが、先に進ませてもらう。
棟方志功同様、富山市に疎開していた前田普羅と棟方志功を結び付けたのも、石崎俊彦氏だったのである。冊子に載っている宇賀田達雄氏による「石崎俊彦と棟方志功」によると、「昭和二十年の初夏の頃、石崎は棟方に頼まれて、棟方の疎開報告と、裏山の白い花の一枝を託されて、富山市に住む前田普羅を訪ねている」のである。
棟方志功夫妻と前田普羅とが、石崎氏という案内役を得て、昭和二十一年六月には、戦後初めてのピクニック(福光町西郊の桑山)に行き、大変喜んだというエピソードも、宇賀田氏の一文には載っている。
さて、ようやく本題に入る。
そう、前田普羅[明治21(1888)~昭和29(1954)]のことである。例えば、下記サイトを覗いてみる:
「前田普羅」
このサイトは、「閑話抄」(文責:たいら)というサイトの中のものである。
東京生まれ(横浜生まれとも)の前田普羅、前歴はいろいろあるが、「句は明治41年24歳頃から松浦為王について始めたようであるが、大正元年頃から「ホトトギス」に投句するようになり、たちまち虚子に認められ賞賛される。」が注目される。
「大正10年、俳誌『加比丹』創刊」し、やがて、『辛夷(こぶし)』の「昭和4年頃からは名実共に主催者となる」わけである。
富山との絡みで言うと、「関東大震災によって家財一切を焼失し、翌年、報知新聞富山支局長として越中立山の麓、富山市外奥田村に移り住む。彼にとって富山は憧れの地であったようで、以来、同地に長く居ることになる。」のだった。
この「富山が憧れの地であった」らしいという点の根拠を知りたい(後述することになる)。
それにしても、富山市外奥田村には、前田普羅のほか、富山県の初代知事だった国重正文氏の私邸が当時知事公舎がないため、その奥田にあったというのと同じ村なのだろうか:
「天真寺「松桜閣」」
前田普羅は、やがて、昭和24年には富山を離れるのだが、一時、流浪の境涯を経た後、「昭和26年には東京大田区矢口に新居を構えるが、これは落ちついたというより体調を崩してやむなくという感が強い」という。
つまり、30年近く富山に居住していた訳だから、実質、後半の人生の大半を富山で過ごしたことになるわけである。
「代表的句集に『能登蒼し』『春寒浅間山』『飛騨紬』」があるという。
「月刊人物誌[越中人譚] 第51号 テーマ【俳 壇】」
このサイトでは、「越中風土を詠んだ虚子門下四天王」として前田普羅(まえだふら)の名を挙げると共に、「孤高の詩心を磨いた俳人」として、金尾梅の門(かなお うめのかど)や、「越友会を指導し越中俳壇に貢献」という筏井竹の門(いかだい たけのかど)を挙げている。
さて、ネットで見つかる限りの前田普羅の句を拾ってみたい。
まずは、上掲の「前田普羅」から、
うらがへし又うらがへし大蛾掃く
帰りなん故郷を指す鳥総松(絶句)
雪山に雪のふり居る夕かな
ビードロのうす明りして祖母のかんざし
暁の蝉のきこゆる岬かな
お蚕せわし梅雨の星出て居たりけり
いつまでも人のあるける月夜哉
「北陸文化考 *** 133 *** -ふるさとの文学風景-
前田普羅の富山地貌句 八木 光昭(洗足学園魚津短大教授)」
ここには、句集「能登蒼(あお)し』の「序」からとして、【わずか5分で来富決断】という興味深い前田普羅の回想が載せられている:
相談に要した五分間は、あまりにも自分の運命を決するには、短か過ぎたかも知れないが、五分間に自分の眼底に去来したものは、荒涼たる能登の国であり、雪をかづいた立山であり、また黒部峡谷であつた。次いではまだ鉄道も通つてゐない飛騨の国なのであった、実は五分間の考慮も長過ぎた、長過ぎた五分間は、自分がそれ等の山海峡谷の姿を、眼底に反芻(はんすう)するのに要した時間なのであつた。
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