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2011/06/05

『ドイツ・ロマン主義の風景素描』を巡って

               (前略)

 小生がフリードリッヒに惹かれ始めたのは、学生時代のことだった。このことは別の機会に書いたので省略する(関連拙稿参照)。
 小生が上京した78年に、まさしくこの国立西洋美術館において、『フリードリッヒとその周辺』展が開催されていたのだった。
 フリードリッヒを巡るその展覧会は、まるで東京にやってきた小生を歓迎するかのようだった。4月の下旬だったと思われるが、確かその日も、シトシト雨いが降っていて、美術館の休憩所で一休みし余韻を楽しみながら、雨の中庭の風景などを眺めていたことを覚えている。

 その後も、何かの企画展に扱われる画家の一人として、フリードリッヒの作品に遭遇したことは二度ほどあったように記憶する。今度の展覧会も、副題は「ユリウス・シュノルの「風景画帳」、フリードリッヒ、コッホ、オリヴィエなど」となっている。
 しかし、とにかくフリードリッヒの作品に会える!

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 前述したように体調が悪く、しかも朝から食事もしないままに昼下がり、ヨーグルトだけを飲んでやってきたので、狙いはフリードリッヒの作品だけに絞っていた。
 展示されている作品の主眼は、「ユリウス・シュノルをはじめとして、コッホ、オリヴィエ、フリードリヒなどの19世紀ドイツ・ロマン主義の素描103点を紹介します 」とあるように、ユリウス・シュノルの「風景画帳」にある。

 実際、最初の展示室にあるのは、ユリウス・シュノルの「風景画帳」関連の作品の数々だった。
 お盆休みではあるが、雨ということ、さらに、企画内容がロマン派とはいえ、素描作品と、比較的地味なこともあり、館内の人の数は、寂しくはない程度。人込みを押して見る体力のない小生には、ちょうどよい人の入りだったと、勝手ながら感じていた。

 3時過ぎで、場合によっては大入りを心配した小生は、なんのプレッシャーも感じることなく、最初の数点をジックリ見ることが出来た。好ましい作品の数々。この作家、この世界に寄り添っていくなら、それはそれで楽しめる世界。しかし、そんな余力のない小生は、幾つかの作品をジックリ見た後は、展示室の真ん中辺りから流し見る程度で、次のコーナーへ。

 そして、19世紀ドイツ・ロマン主義の素描作品の数々が並び展示される中、遠目にもフリードリッヒだと感じる。何が違うのか、小生には説明する能がない。他の作家たちとは違う画風を感じる、で、近づく、するとやはり、フリードリッヒだったという次第だ。

 風景画を見るのは好きだ。水彩であれ、油絵であれ、エンピツ画であれ、眼前の風景を愛惜するようにして眺めている作家の眼差しを感じる。
 素描作品は、多く、必要以上に描き込まれていないだけ、その分、その時代の森や町や建物などの雰囲気や描き手の人柄を髣髴とさせてくれる。

 ところで、さて、ドイツ・ロマン派とはどういうものなのだろう。ロマンチックという言葉を一頃はよく耳にも目にもしたものだった。グローバリズムの波の激しさが、加速度を増している今日、ロマンチックというのは、死語に近い扱いをされているのかもしれない。何か非現実的で、無駄が多く、まさに現実の舞台から逃げているかのような。
 そのドイツ・ロマン主義の鍵を握る人物というと、やはりゲーテということになりそうである。無論、ホフマンやノヴァーリスを想う人も多いだろうし、シューマンやワーグナーらの音楽を真っ先に思い浮かべる人も多いだろう。

 この展覧会の図録の中に、国立西洋美術館主任研究官である佐藤直樹氏による、「ロマン主義におけるディレッタントの役割――ゲーテ、フリードリッヒ、メンデルスゾーンの素描をめぐって」という小論が載っている。なかなか啓発に富んだ一文だった。
「イタリア・ルネサンスにおいて、素描は重要な技術であると認められていた」このことは、美術家にのみ認められていたわけではない。貴族に相応しい営みとされていたという。
 さて、名士の家に生まれたゲーテは教育に一家言を持つ父の手により、英才教育を受けている。自分の子ども達に必要と思われる何科目かを自宅で教育した。家内で実行された教育は、「書き取り、ラテン語、ピアノ、フェンシングそして素描」だったのである。

 ゲーテは単に父の教育の影響以上に素描そして美術に傾倒する。『詩と真実』にもあるように、最後の最後まで迷った挙げ句美術家になることを断念する。
 だからといって、素描をやめたわけではない。ゲーテには2580点もの素描を遺しているほどなのである。が、文学者として大成しても、捨てた美術家の夢は苦く残りつづけたのである。

 さて、ゲーテはディレッタントの概念を次のように定義している。「ディレッタントとは芸術愛好家のことだが、作品を鑑賞し楽しむだけではなく、作品制作を実行する人のことである」
 ディレッタントとは芸術を職業とすることなしに、自身が芸術家であろうと努める人物のことを指す。職業的な成果を求めることなく、ただ芸術活動の顧問において芸術家であろうと望む人のことなのだ。ゲーテは、この意味でディレッタントたることを自認したのである。そのように佐藤氏は説明する。

 そのゲーテは、かのフリードリッヒとの交流もある。自宅に招いたこともある。フリードリッヒにどのような影響を及ぼしたのか、はっきりはしないが、及ぼさなかったとはいえない。幼い頃からの素描家であり、ゲーテ自身の作品も実に見事な出来である。そしてゲーテの美術への思い入れ、文学思想、そうした何某かがフリードリッヒに、どのような影響を与えたのかどうか、自分の目で確かめるしかないのだろう。筆者である佐藤氏は、「石塚」というテーマでは、フリードリッヒがゲーテから想を得たのではと考えているようだ。

 ゲーテ自身もフリードリッヒの作品から想を得た素描を描いていると佐藤氏は指摘している。

 かのメンデルスゾーン(彼のヴァイオリン協奏曲こそが、小生にクラシック音楽の世界へ導いてくれたのだった。開眼させてくれたのだ)も、既に老大家となっていたゲーテとの交流の深い音楽家である。ゲーテの家でピアノの即興を何時間も弾いてみせたという。ゲーテは後に『ファウスト』の原稿をメンデルスゾーンに贈呈している。

 さて、そのメンデルスゾーン自身もまた、素描家だったというのは、小生は初めて知った。彼の場合、音楽家としての才能があまりに秀でていたため、音楽家になるか美術家になるかという迷いの生じる余地はなかっただけのことなのだ。メンデルスゾーンのスケッチの腕前は同時代の風景画家と比べても遜色はなかったという。

 実際、図録のこの佐藤氏の手になる「ロマン主義におけるディレッタントの役割」には、ゲーテやメンデルスゾーンの素描がそれぞれ数点、載っていて、どれも素晴らしい。

 佐藤氏の小論の中にも書いてあるように、素描が美術家に止まらず貴族の嗜みだったし、自身が美術家になれなかったゲーテは、生涯を通じてのディレッタントとしての素描の営みを、文学の面で昇華させたわけだし、メンデルスゾーンも素描家としてはディレッタントたるしかなかったが、その風景を眺めやることで鍛えられ育まれた眼差しの幾分かを音楽の世界で花開かせたとも言えるのかもしれない。


                        (03/08/15 原作


フリードリッヒ関連拙稿:
小笠原洋子著『フリードリヒへの旅』を巡って
森の中のフリードリヒ
フリードリヒのロマンという悲劇
フリードリッヒ…雲海の最中の旅を我は行く

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