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2011/06/05

ウエルベック著『素粒子』と文学の命

 ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊)を読了した。フランスでベストセラーになり、様々なスキャンダラスな物議を醸し出したという本書は、既に読まれた方も多いだろう。

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← ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊) 「人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作」だって。

 文学に疎い小生は、昨年末、近所の図書館で年末年始の休暇中に読む本を物色していて、本書を見つけた。全くの未知の本だった。その前にG・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を手にしていたのだが、他に何かずっしり来る本はないかと探していて、単にタイトルに魅せられて、ちょっと手を伸ばしてみただけのつもりだった。書評などで採り上げられていたのかどうかも、まるで知らなかった次第なのである。
 パラパラと捲ると、文章に力がある。これは読んでもいいというサインだ。

 ただ、結局のところ、年末年始はガルシア=マルケスに軍配が上がった。8年前に読んだ感動を今一度、味わいたいという欲求が勝ってしまって、本書を読むのが今頃になってしまったのである。
 さて、今更、「素粒子」というのも、古臭いような気がする。原子が核とその周りに電子が巡っているという描像がやや崩れかけてきた頃だった、数十年の昔なら、文系の、でも科学好きな人間にもイメージ的にインパクトがないわけではなかったろうが。

 それでも、まだ、文学の世界にしっかり素粒子的イメージが浸透しきっているわけではない。
 尤も、文学には元々無縁な概念なのかもしれない。だから、真空の世界を微細な粒子がそれぞれ孤独に舞い漂うというイメージは、別に素粒子ということじゃなくて、もっと他の感覚的な表現で表されていたのだろう。


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← ミシェル・ウエルベック著『闘争領域の拡大』(中村 佳子訳 角川書店) 小生は未読。書評としては、「IdeaFlow 『闘争領域の拡大』(ミシェル・ウエルベック著)」が秀逸。本書もこの頁で知った。内容の、あられもないこと! なんだか身につまされるが、当て嵌まっていると思うしかない…。

 さて、本書は、異父兄弟のそれぞれの生を通して、20世紀も最後の数十年のフランス、特にエリート知識人らの生態を描いている。若くして文学的感覚に傾倒していく兄と、科学的センス、分析的センスに溢れ天才的な生物学者として怜悧な生を送る弟の生を描き分けることで、恐らくは書き手の人生を相当色濃く反映している小説を、複層的で奥行きのあるものにしている。
 兄は、徹底して感覚的享楽や快感を求める。ドラッグもそうだが、何と言っても肉体的快感の成就を追い求めるのだ。追うというより、駆り立てられていると言ったほうがいいのかもしれない。けれど、彼は自分のセックスに自信がないというコンプレックスを抱えている。決して、無邪気で無自覚な享楽家ではないのだ。だからこそ、彼に関わりある男も女も陰影を持って見えてくるわけだし、入り組んだ、古臭い言葉を使えば倒錯した性的パラダイスを追い求めるしかなくなっていくのである。

 彼も愛する人がいる。が、その相手も決して満たされることのない、叶うことのない肉欲の虜なのだ。彼、兄は、やがて心に変調を来たしてしまう。
 一方、弟は物心付いた時から、数学を含め科学的分析能力に優れた人物として描かれている。現に示している才能と、将来を嘱望されて遺伝子の分野に携わる生物科学研究者としてエリートコースを歩いていく。
 彼は、その尖がりすぎた才能の故に、現に彼の目の前にいる最愛の人の現実の姿が見えない。深く、科学的研究の蛸壺的世界に浸りきってしまっているのだ。

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→ 『素粒子』は、映画化された。結末部を変えた上で。作家は納得していない…ような。

 そこにいるのに彼に愛されず、擦れ違っていくあまりにも美人である彼女は、決してこの世に目を向けない彼への不毛の愛の故に彷徨を繰り返し、何度かの堕胎の挙句、絶望的な病を得てしまう。
 丁度、その頃になって弟と彼女は再会する。彼女は弟の子供を求める。弟も戸惑いながらも承知する。
 けれど、彼女は既に子供を産めない体になっていたのだった。恐らくはそのことを彼女自身が恐る恐る自覚していたに違いない。にもかかわらず彼女はもしからしたらという絶望的な渇望の成就を希ったのだ。束の間のパラダイス。
 彼女は妊娠して夢が叶ったかのようだった。その時、死の病はその姿を剥き出しにして彼女を襲うのである。

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← ミシェル・ウエルベック/著  『プラットフォーム』(中村佳子/訳 角川書店)

 ところで、本書が物議を呼んでいるのは、文中に実名や実在の団体などが登場していたり、優生思想や人種差別ともなりかねない部分があるからだが、それ以上に、小説の末尾が毀誉褒貶の対象になっているからだ。詳しくは書かないが、生物学者である弟は、愛する女を失ってから、ある研究所で革命的な研究を達成する。それは、もしかしたら人類にパラダイスを約束するかもしれない研究成果だという。21世紀の初頭になって(原著は98年発表)遺伝子工学を駆使して、ほとんど独力で古い人間に代わる新しい人類を作り出したのだ。

 彼はエゴイズムや残酷さやに縛られない旧人類が「神」と呼んでいたであろう存在を作り上げたのである。そうして彼は行方知れずとなってしまう。作者は、弟が「海に身を投じたに違いない」としている。

 率直に言って、結末はガッカリである。
 ここには逃げがある。そうでなければ、作者の科学への過度の信頼がある。
 過度でないとすると、少なくとも根拠のない信頼というべきか。
 文学的センスに溢れる兄が精神に異常を来たし、弟は最後には曖昧な消え方をするものの、一定の「成果」を土産にしていることに、作者の明確なメッセージがあるわけだ。科学者である作者の限界というべきか。

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← ミシェル・ウエルベック著『ある島の可能性』(中村 佳子訳 角川書店) 「「これは僕の最高傑作」と豪語する、ウエルベック渾身の最新長編」だって。本人が豪語するのだから、間違いないだろう。中村佳子氏は、『素粒子』について卓抜な書評を書いていたが、あるいは、作家に魅せられたのだろうか、立て続けにウエルベックの本を訳している。悲しいかな、本書も小生は未読だ。ミシェル・ウエルベックはフォローしておくべきだった。村上竜辺りが影響されていそう…あるいは、共感しそうな作家だ。

 そもそも、20世紀の末になり、今世紀になって、我々は科学への必要性は従来以上に感じている。恐らくは病の克服や、貧困問題の解決も科学なくしてはありえないのだろう。
 けれど、それでも、もう、それこそ根拠のない確信に過ぎないのだが、科学が人間の心の病や精神的渇望には、何ら寄与しないだろうという絶望的直感が骨身に浸透している。我々は、もう、それほど科学にナイーブではないのである。

 エピローグの叙述への不満にも関わらず、本書は、久々にフランス文学に、ロゴスの戯れに終始しない文学が登場したことを小生に確信させてくれた。文学は問題を解決はしないかもしれない。が、現実から目を背けず、むしろ立ち向かい表現し尽くすことはできる。
 その覚悟と勇気こそが文学の命なのだから。

02/01/15 記 挿入した画像とコメントは、11/06/05のアップに際し付したもの。)

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