「清宮質文展 生誕90年 木版画の詩人」 ! !
清宮質文は小生の大好きな木版画家である。
知っている人は多いとは言えないのだろうか。
→ 清宮質文 【深夜の蝋燭】1974年 (画像は、「駒井哲郎・清宮質文」より(ホームページ:「大川美術館」))
清宮質文(敬愛の念を込めて敬称は略させてもらう)の存在を知ったのは、練馬区立美術館で1994年秋に開催された「「駒井哲郎」・「清宮質文」二人展」を見た際だった。その時は、駒井哲郎の作品に会いに行くためだったのだが、ついでに見るつもりだった清宮質文の諸作品に深く感銘を受けたのである。
好きだと言っているわりには、清宮質文については、00年に小田急百貨店の新宿店で催された彼の展覧会見てのエッセイを書いたことがある(後にホームページに掲載)だけで、あとはまとまった形では扱ったことがない。
僅かに「ブレスダン…版画と素描と」で、まさについでの形で(でも敢えて文章の流れに逆らって)触れたのがあるだけ(のはず)である。
まあ、こうした作品は(本物に接する機会があれば逃さないとして)画集などを通じてであろうと、とにかくその世界を味わえばいいのだし、言葉を尽くすのが書いている当人からして段々惨めになってくる。
言語表現の無力さを今更、歎くまい。
そう、言葉の無力を思うからって、彼の世界を紹介する労まで省く必要もない。
「清宮質文の周辺」をブログにアップするに際し、せっかくなので彼の作品を幾つか載せておきたい(改行も含め文章は公表当時のまま。但し、文献だけ幾つか追加した)。
展覧会で清宮質文の木版画、その実物に対面するなら、彼の世界に魅了される人がきっとさらに出てくるに違いない。今回は、彼独特のガラス絵は見ることが叶うのだろうか。
「清宮質文の周辺」(01/04/30HPアップ)
1.清宮質文展、再び
2.RE:清宮質文展を見て
← 清宮質文 【秋の夕日】1976年 (画像は、「駒井哲郎・清宮質文」より(ホームページ:「大川美術館」))
1.清宮質文展、再び
大好きな清宮質文の展覧会があったので、今日、じっくりと見てきた。確か93年に氏の回顧展を見て初めてその作品に接したのだが、約7年ぶりの再会となる。
やはり素晴らしい。叙情性がセンチメンタリズムに陥るぎりぎりのところで静謐な透明性を保っている。それは氏の魂の孤高の故なのだろう。涙で滲んだような揺らいでやまない遠い日々の印象的な場面。その数々が胸のすぐそこクッキリと浮かんでいるのに、手を差し出せば指の隙間から零れ落ちる砂のように掴み所がない。
版画という表現媒体の不思議な魅力に小生が気付いたのは結構、昔のような気がする。ムンクとかルドンとか、日本では長谷川潔とか、あるいは駒井哲郎とか。けれど、清宮の作品の数々に触れて改めて版画の魅力に取りつかれたようだ。特に、今回の展覧会では(小田急新宿店で20日まで)原版が幾つか展示されていて、その必ずしも緻密に細密に彫ったわけではなさそうなのに、刷り上ってみるとそこにはなぜか不思議な澄明感が浮かび上がってくることの不思議さに驚かされる。
小生は一方ではポロックやデ・クーニングのような抽象表現主義とか、あるいはフォートリエ(やデュヴュッフェ、アントニ・タピエス)などのようなアンフォルメルの画家達が好きなのだが、それでいて清宮の静謐なる孤独の世界が大好きなのである。
(そういえば昔、週刊新潮の表紙に谷内六郎の郷愁を駆り立てる素朴な絵が載っていた。彼が御存命の頃は、何処か毛嫌いしていたのに、今は素直に彼の世界に没入できるのは何故だろう…)
それは喧騒の極まる時代の中で、一方ではとことん引き裂かれ歪み苦しむ無数の魂を感じるからであろうけれど、同時に徹底して心の奥底に沈潜して何か純度の高い、時の流れを忘れさせてくれる世界を求めるという、小生の相反する欲求があるからだろう。 それにしても、絵画でも音楽でも彫刻でも陶芸でも、とにかくその世界に没頭できるものを持つ人が羨ましい。もちろん、そうした人々は小生など想像も付かない生みの苦しみに呻吟しているのだろうけれど。
[本エッセーは昨年の2月15日に某フォーラムに投稿した文章です。括弧内は本日(4月30日)追記したものです]
→ 清宮質文 【九月の海辺】1970年 (画像は、「駒井哲郎・清宮質文」より(ホームページ:「大川美術館」))
2.RE:清宮質文展を見て
Sさん、こんにちは。コメントをありがとう。
全く、おっしゃられるとおりです。小生もそのことはつくづく感じています。また、小生が版画やあるいはポロックなどが好きだというのも、まさに恐らくはデジタル化には一番適さないだろう、手触りの感じ、Sさんの言う、"身体との関わりなしでは観ることの出来ない要素"があるからこその故だと思います。
身体との関わりなしではという点がとても貴重な指摘だと思います。何しろ、現代って身体性や肉体性の希薄化の方向へますます向かっていくように感じられますから。
環境問題が叫ばれ、自然を大切に、と唱えられながらも、そしてその主張に真っ向から反対する必要もないけれど、でも人間にとっての環境、自然って何処までいっても人間にとって都合のいい環境、自然であるしかないのです。
← 清宮質文 「??」 (画像は、清宮展も今回で二十数回となるという「ミウラ・アーツ」より。「ミウラ・アーツ」にても、「2007年12月1日(土)-12月22日(土)」の会期で「清宮質文作品展」の予定がある! 根気良く調べてよかった! 「清宮質文名品」なる頁は覗くべし。これらの作品が展示されるのだろうか?!)
つまり、できれば蚊や蝿の飛び回らない、花粉の飛ばない、変な微生物の潜まない美しく安全な、つまり無難な自然こそ、人間の要求する自然だということです。例えば、泉鏡花という作家が小生は好きなのですが、彼の作品に「高野聖」があります。ご承知のことと思われますので、詳細は申しませんが、特に彼の作品の中で描かれる自然が印象的なのです。一歩、山の中に踏み込むと、そこにどんな生き物がうごめいているのか想像を越えるものがあるのです。木の枝の陰からヒルが血の匂いを嗅ぎ付けて舞い降りて人の腕や首筋やすねなどに吸い付くのです。そんな禍禍しい自然こそ本来の自然だったのでしょう。
けれど、自然の回帰を叫ぶ人は必ずしもそんな危ない自然など望みません。あくまで人間に害を与えることのない、無難な小奇麗な、それこそ京都の古寺仏閣にある箱庭的風景としての伝統的美意識に訴える自然なのです。
それはそれで一つの主張なのでしょうが、そうした無難で安全な自然をしか自然と認めない社会にますますなっていくなかで、恐らく人間の中に潜む決して都合がいいだけとは限らない"自然"はどこまでも反抗することを止めないでしょう。そうした一切の軽薄な自然や環境への支配を拒む獣、生き物としての人が我々に身体性の復権、肉体を帯びた存在としての獣たる人間性の回復を少なくとも、小生は希求するのです。
美術作品は現物に限ります。実際、清宮質文の展覧会でも作品と同時に氏が使った彫刻刀やあるいは版木などが展示してあって、それらにも小生は感銘を受けました。まさに手作りの感触をたっぷり味わえたのです。
→ 「また来ん春…」(中原 中也【詩】・清宮 質文【画】 玲風書房 2002年)
小生は美術カタログを見るのが好きです。上記と矛盾するようですが、そうではなく、まさにカタログを通じて、作る過程を自分なりにシミュレーションしてみるのです。その創作過程を勝手に味わってみるのです。また、カタログはこじんまり写真に収まることによって、場合によっては本来の作品とは違う作品になることがあります。そしてまさにそうした違った作品を、観る小生が勝手に想像や思い入れで以って別個の作品世界を創造するのも楽しいものです。
長くなりましたが、Sさんの名前って面白いですね。どういう意味合いがあるのでしょう。
[この一文は冒頭のエッセーに対し、2月21日に戴いたS氏のコメントに対する返事(2月22日付け)です。名前はハンドルネームの頭文字に変更しました]
日本の画家や版画家で好きな作家は少なからずいる。松本俊介、国吉康雄、鴨居玲…。いつか、そうした愛してやまない作家たちについても触れる機会を持ちたい。
尚、参考のため、清宮質文の文献を以下に示しておこう:
清宮質文の『雑記帳』
版画家深澤幸雄氏との対談記録(1988年11月21日)[『版画藝術』第63号 安部出版 1989年 所収]
『版画藝術』第73 清宮質文追悼特集―果てなき空に眠る詩魂
野見山暁治「壜の中のひと」『清宮質文』(玲風書房 1992年)
[「駒井哲郎」・「清宮質文」二人展]図録 練馬区立美術館 1994年
「清宮質文展」図録 神奈川県立近代美術館 1997年
「清宮質文展」図録 小田急百貨店 2000年
「日本現代版画 清宮質文」(玲風書房 1992年)
「また来ん春…」(中原 中也【詩】・清宮 質文【画】 玲風書房 2002年)
「静謐の競演駒井哲郎・清宮質文二人展」図録 大川美術館 2002年
← 松本竣介《運河》 (画像は、「大川美術館」表紙より) 「第二次大戦後まもない1948年(昭和23年)、持病の気管支喘息が元で、36歳の若さで没した」松本竣介も大好きな作家である。
特に1992年の初頭に開催された練馬区立美術館での二人展は私には印象深い。会社で窓際族にあって、私的にも追い詰められていた頃でもあった。私は埴谷雄高の単行本の挿絵で高名で、早世した駒井哲郎の版画を見るつもりで練馬区立美術館を訪れたのだった。しかし、私の胸を打ったのは清宮質文の版画作品群だったのだ。遠い日の自分の至純な魂が喚起されるようで、当時でなければ起こりえない遭遇となったのである。
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