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2011/01/02

ベックリン「死の島」と髑髏

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→ アルノルト・ベックリン『死の島』(1883年 ベルリン美術館) (画像は、「アルノルト・ベックリン - Wikipedia」より)

 久世光彦著『怖い絵』(文藝春秋)の中で使われている絵で、小生も好きな絵が幾つもあったが、今回はアーノルド・ベックリンの「死の島」をめぐって若干の感想を。
 まあ、本稿も相変わらず、久世光彦著『怖い絵』の周辺を廻っての「久世光彦著『怖い絵』の周辺(続)」に引き続く、周辺物である。
 小生は、もう、二十年ほどの昔、何処かの展覧会(多分、国立西洋美術館)でベックリンの「死の島」を観る機会を得たことがある。仙台での学生時代には気になる絵の一つだったし、何処か憂愁の念に駆られがちの若い時には誰しもこの絵の世界に魅入られるものだろうけれど、実際、展覧会で実物を見て、死の世界に吸い込まれるような思いがあった。
アルノルト・ベックリン - Wikipedia」によると、「文学、神話、聖書などを題材に、想像の世界を画面に表わそうとする象徴主義の画家たちも同時代に活動していた。ベックリンはこうした象徴主義・世紀末芸術の代表的画家の1人である」ということで、絵を文学や思想、音楽その他と絡めないでは観られない、何処か文学趣味に走りがちでもある鑑賞の技量の未熟な自分だと、こうした象徴主義の絵画やゴッホやムンク、ルドン、モローなどの絵は分かりやすいし入りやすいかのようである(あくまで、かのようであるに過ぎないことは、絵を観る機会を積み重ね、絵をその他の分野と絡めないで観る楽しみを知ると、一筋縄では行かないことを思い知らされるのだが)。

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 本書『怖い絵』に挿入されたカラーの図版を見て、改めてベックリンの絵の凄みを堪能する思いだった。
 ネットでは、画像は、「アルノルド・ベックリン 《死の島》 1880年」(バーゼル版)が、ましなほうか。でも、「1987年、東京の国立西洋美術館に来たときの絵葉書からスキャン」したとかで、絵の生々しさは、現物はもとより、久世氏の本『怖い絵』に挿入された図版にも到底及ばない。
 と言いつつ、参照させてもらっている。「福永武彦の小さな部屋」のサイト主さん、ありがとうございます。頭が上がらないです。手元にベックリン展の画集が見当たらないし、スキャナーも持ち合わせていないので、世の人の力が便りなのです。

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← アルノルド・ベックリン 《死の島》 (1880年 バーゼル版?) (画像は、「『死の島』の超私的な思い出」より)

 ベックリンの「死の島」は、福永武彦の同名のタイトルである小説「死の島」のモチーフになり(ちなみに、福永武彦の小説「死の島」は、語感(駄洒落というわけじゃないが)からも「原爆の投下を受けた「広島」のイメージに重ね合わせている」のは言うまでもない)、「ラフマニノフがインスピレーションを受け同名の曲を作曲した」り、「アーノルト・ベックリン(Arnold Böcklin; 1827年-1901年)やマックス・クリンガー(Max Klinger; 1857年-1920年)の影響を受け」て、「ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888年-1978年)により始められた、絵画の一形式」としての形而上絵画となって結実し、シュルレアリスムにつながり、「マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォーなどへ、強い影響を、場合によっては決定的な影響を与えてい」くわけである。
(余談だが、「ベックリンの「死の島」は同じ題名で5枚の違った絵が描かれ、ラフマニノフもその複数の絵を目にして曲想を固めて行くのですが、面白いことに彼が最初に出会い、且つ最も感銘を受けた素材が、実は原作のどれでもない、銅版画による白黒の複製であった」というのだ。しかも、「後に原画を見る機会を得て、予想していたより明るい色調に衝撃を受け、「これを見ていたらあの曲は書かなかっただろう」と述懐したという」から何が幸いし何が禍するか一寸先は闇である。)

 小生自身、高校二年の美術の時間に先生がダリと共にキリコらの絵を見せてくれたことが切っ掛けで絵が好きになったものだった。教室の窓をカーテンを閉めて外光を遮断し、映写機で数々の絵画作品を見せてくれたその印象は今も記憶に鮮やかである。
 同じクラスに後に美術史の研究者になる同級生がいて、彼がダリに当時、傾倒していて、その影響で小生も絵の世界に開眼したというのは出来すぎた話で、実際は小生は当時出た中央公論社の世界の名著シリーズでフロイトの巻を購入しフロイトの著述に魅入られていった。資質が違うということか。

アルノルト・ベックリン - Wikipedia」によると、「『死の島』は暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいくさまを描いた神秘的な作品である」という。そうした図柄は絵を観ると、確かに即座に理解できる。「この作品に見られるように、写実的で緻密な描法と、画面にただよう神秘的・幻想的な雰囲気がベックリンの特色である」というのだから。

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→ アルノルド・ベックリン 『生の島」(至福の島)』(バーゼル版) (画像は、「天球美術館 死の島」より)

 しかし、不可解な絵でもある。専門家はどのように説明してくれるのか分からないが、絵を観ると、即座には分からない部分も多い。「英雄的存在の孤高の死を描いたものとされてい」る暗い絵、暗い場面のはずなのに、どうして白い棺を乗せた小舟に乗る白い衣服に身を包んだ男(多分、男だろう。でも撫で肩からして女性ということもありえる)の姿、死の島の一部が眩いばかりに輝き絵から浮き上がるように描かれているのか。
 朝日か夕陽に照り映えている? だからこそ死の島の、島というより岩山が赤茶けて見えるのかもしれないが、だったら、岩場の真ん中に聳え立つ異様に樹高のある木々(恐らくはゴッホを思い浮かべるまでもなく死の象徴である糸杉だろう)だって、一部くらいは陽に映えて光って見えてもいいはずだが、まるで光を拒否している、それともブラックホールであるかのように光を吸い込むばかりで闇に沈みきっている、そのように描かれているのは何故なのか。
 画家がそのように描いたのだから、そのままに受けとめればいいようなものだが、しかし、象徴派の画家がそのように描いたのだとしたら、神秘や幻想だったのだとしても、意図があってしかるべきだろう。無意識の意図が図らずも示されたというふうに理解して糊塗しておくほうが無難か。

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← アルノルド・ベックリン 『死神のいる自画像』 (画像は、「賢者の石ころ 徒然に世紀末の象徴主義『アルノルト・ベックリーン』」より)

 実際、知られているように、「1880年から1886年の間に5点が描かれている」のであって、上で示した以外(久世氏の本にはこれ版のものが使われていた)に、「画像Arnold Böcklin 006.jpg - Wikipedia」のようなヴァージョン(1883年ベルリン美術館)もある。
 こちらは暗雲立ち込めていて、不気味な雰囲気は漂っているのだが、真ん中の樹林が真っ黒なことを覗けば、夕陽(朝日)に照らし出された岩場など理解が不能というわけではない。
 やはり、バーゼル版が凄い。一際、異様ぶりが際立っている。
 しかも、「生の島(Lebensinsel 1880)」という絵(「至福の島」と訳される場合もあるようだ)もあったりするから、絵の鑑賞も5つのヴァージョンを見比べることで理解が深まる(逆に一層、混迷を深めるかもしれないが)と思っておいたほうがいいのだろう。

 改めて「死の島」を眺めてみよう。画が鮮明だと実感するというか、読み取れるようでもあるのだが、岩塊には無数の顔が<認識>しえるような気がする。実際、このことは、久世氏の本『怖い絵』に挿入された図版を観て気が付いたのだった。なんだか、髑髏(どくろ)が岩塊に埋まっているように見えたりするのだ。分厚い雲を眺めあげていると、不意に奇妙なゲシュタルトが浮かび上がってくることがあるように。
 こうなると、やはり絵は絵であって、岩塊としての死の島が何処かに厳然として存在していて、遅かれ早かれ誰しもが白い衣に全身を包んで誰かを送っていくのであり、ついには今度は自分が白装束の誰かに伴われて向かっていく、送られていくのだと、生きているとはそのような定めにあるのだと厳粛に受け止めておけばいいということだろうか。
 
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→ アルノルド・ベックリン 『キリストの死を嘆くマグダラのマリア』 (画像は、「賢者の石ころ 徒然に世紀末の象徴主義『アルノルト・ベックリーン』」より)

 他にもベックリンについては触れておきたいことがある。少なくとも、ベックリンの有名な画「死神のいる自画像」くらいには言及しておきたかった。
 リンクした頁には、「画家が死に神の奏でるバイオリンの音に聴き入っている。インスピレーションの瞬間を描いた作品とされるが、自画像の背後はあとで描き加えたらしい。画商に「何に耳を傾けているのか」と聞かれ、その答えが死に神だった。(1872年)」とある。
 やはり、「死の島」の岩塊には死神か髑髏が思わず知らず描き篭められていたという直感は的を射ているように思えるのだが、しつこすぎるか。

 本文を書き終えて、ネットにアップさせてから、リンクの確認もあって読み返しつつ、ネット検索の検証を続けていたら、「死の島」をめぐる素晴らしいサイトを見つけた。「1996年夏から1997年初夏にかけての一年のあいだに、ベックリンの「死の島」 を、それぞれ所蔵されている美術館で見る機会がありました」と冒頭にあっては、何をかいわんや、である。
 このサイトを最初に見つけていたら、小生ごときがこうした雑文を綴る必要も意味もなかったのだが…。
 そのサイト(頁)とは、「「死の島 Die Toteninsel」を巡る美術館の旅  浅野魔夢」である(ホームは、「OPEN SESAME Web」)
 ま、こうしたサイトに遭遇できたことだけでもネット散策の旅を敢行した甲斐があったというものか。

[ 本稿に画像を掲載した。小生には、ベックリン関連の拙稿として「ベックリン…死への旅路は若き日より」がある。ベックリンをもっと緩やかに扱っている。 (07/12/01 追記)]
[「ベックリンの「死の島」と髑髏」より抜粋]

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