村上春樹訳チャンドラー『ロング・グッドバイ』を読む
レイモンド・チャンドラー作『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳 早川書房)をとうとう読了した。
← レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler)作『ロング・グッドバイ(THE LONG GOODBYE)』(村上春樹訳 早川書房 (2007/03/10 出版))
とうとう、というのは、読書に割く時間がなく、情けなくもちびりちびりと、まるでブランデーでも嗜むようjに読む羽目になったこと、冒頭の一節を読み始めた瞬間からその文章に惹かれ、読み終えるのが惜しくてたまらなくなったこと、(最後は思いっきり情けない個人的事情だが)滅多に本を買えない小生、買った本を読む貴重な機会と時間が過ぎ去ったことなどの理由の故である。
そして、読み終えるのが実に惜しいと感じさせた本でもあった。
傑作を読む弊害(?)の一つは、他の大概の本がつまらなく感じられそうなこと。
本書を書店で買うのは、全くの偶然だった。
父に頼まれた予約していた本が届いたというので、取りに書店へ立ち寄った際、衝動で自分も何か本を買おうと、つい思い立ってしまったのだ。
介護や入院費用などで生活が窮していて、外食も床屋もご法度の身分、本を買うなんて論外だったのだが、書店に入ってしまったら、もうどうしようもない。
書架をフラフラ見て回るうちに、何か買おうという気になってしまっていたのだ。
しかし、一年に一冊、買うかどうかという小生、いざ買うとなると躊躇うし迷う。
月に数冊の本を買うというのとは違って、買う基準というか物差しが厳しくなる。
あれこれ迷った挙句、候補は二冊に絞られた。
(実は、村上春樹の新著も候補の中にあったが、最後近くで脱落(断念)。図書館で借りて読むことに決めた。書店も家の近所で、小さいとは言えないが、市内で有数の書店というほど大きな店ではない。自ずから選択の幅も限られる。)
その二冊とは、チャンドラーの上掲書とガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(新潮社)である。
ブログの日記で何度となく書いているように、小生はマルケスのファンであり、たまたま書架にあった『百年の孤独』にしても、既に少なくとも2回、読んでいる(図書館で借りて)。
しかし、もう一度、読み返してみたいし、読めば新たな感動を覚えること間違いないと思えた。
(昨年、やはり父の用で同じ書店で本を予約した際にも、やはり衝動買いというわけではないが、書架を物色し、マルケスの自伝『生きて、語り伝える』(新潮社)が棚に並んでいるのを発見。冒頭の一節を読んだ瞬間、既に買うことに心の中で決まっていたのだった。こんな機会でないと本を買わないのだ。)
しかし、同じ書架に、村上春樹訳のチャンドラーの小説が並んでいる。
どっちにするか…。
決め手は民主主義で、チャンドラーwith村上vsマルケスで、2対1ということで、チャンドラーの小説『ロング・グッドバイ』に軍配が上がった……なんてのは冗談だが、しかし全くの冗談とも言いきれない。
チャンドラーの小説は初めてではないが、感服するほどではなかった。
決め手はやはり、帯にある村上自身の言葉(「あとがき」からの抜粋)だろうか:
『ロング・グッドバイ』は別格の存在である。そこには疑いの余地なく、見事に傑出したものがある。他に抜きんでたものがある。いくぶん大げさな表現を許していただけるなら、それはほとんど夢のような領域にまで近づいている。
村上春樹がそこまで言うなら、騙されたつもりで(すみません!)チャンドラー作品を読んでみることにしたのである。
本書の訳者・村上春樹による力作である「あとがき」も読んでみたいと思った動機の一端になっている。
せっかくなので、「あとがき」から若干抜粋する(ネットの力を生かさせてもらう)。小生の感想などより翻訳者本人の言葉のほうが説得力があるし、紹介する値打ちがあろう:
どうして僕はこの『ロング・グッドバイ』という小説を、それほど何度も何度もくり返して読むことになったのだろう? それとも逆の言い方をした方が話はわかりやすいかもしれない。それだけくり返し読んでも、どうして読み飽きることがなかったのだろう?
この本を読み飽きない理由としては、まずだいいちに文章のうまさがあげられるだろう。チャンドラー独特の闊達な文体は、この『ロング・グッドバイ』において間違いなく最高点をマークしている。最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなものがありなのか、と。
チャンドラーの小説のページを開くとき、話の本筋から逸れた部分をじっくりと読み込むのが、僕にとっての愉しみのひとつになっている。プロットとはほとんど関係のない寄り道、あるいはやりすぎとも思える文章的修飾、あてのない比喩、比喩のための比喩、なくもがなの能書き、あきれるほど詳細な描写、無用な長広舌、独特の屈折した言い回し、地口のたたきあい、チャンドラーの繰り出すそういうカラフルで過剰な手管に、僕は心を強く惹かれてしまうのだ。というか、ほとんど中毒のようになっていると言ってしまっていいかもしれない。
ところで、冒頭に示したように、本書のカバーデザインは色合いも含め、かなり奇抜である。
そのデザインを担当したのは、チップ・キッド(Chip Kidd)。
彼はいかなり人物か:
1964年生まれ、アメリカのグラフィック・デザイナー。恐竜の化石を図案化したマイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』のカバーをはじめ、ジョン・アップダイク、コーマック・マッカーシーなど有名作家の作品を多数手がける。本書のカバーは、1940年代の古いペイパーバックの表紙を現代風にアレンジしたもの。大胆な構図と色使いで知られ、作家ジェイムズ・エルロイをして「世界でもっとも偉大なブック・デザイナー」と言わしめた。
わざわざこの人物紹介を示したのは、作家ジェイムズ・エルロイの名が出ていたからである。
大作家だとは認めたくはないが、トマス・H・クックや、これまた村上春樹訳の『心臓を貫かれて』でも有名なマイケル・ギルモアなどと並び、アメリカを感じさせる作家の一人なのは間違いない。
その点、レイモンド・チャンドラーは、アメリカの大都会の魔境を描きながらも、イギリスの香りが何処かしら漂っている。
…というより、チャンドラーには、いわゆる大文学への郷愁というか未練があるようだ。
ギルモアやクックやエルロイには、そんな根っ子や精神性への尊敬といった念など微塵もない、徹底したアメリカーナだ。
だから、チャンドラーは安心して読めるのかもしれないが。
← マイケル・ギルモア著『心臓を貫かれて 上』(村上 春樹訳 文春文庫) 「心臓を貫かれて」にもあるように、文学手法という意味ではなく、訳した村上春樹の人間観に影響を与えた作品。
参照:
「ロング・グッドバイ 早川書房」
「asahi.com:村上春樹版「ロング・グッドバイ」 清水訳から半世紀 - 文化一般 - 文化・芸能」
「ゲイリー・ギルモア - Wikipedia」
「心臓を貫かれて」
関連拙稿:
「クック著『心の砕ける音』を読んで あるいは捏造された過去」
「マイケル・ギルモア著『心臓を貫かれて 上・下』」
(10/04/11 作)
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