ル・クレジオ 空を飛ぶ
昨日の日記「空を飛ぶ夢を叶えるには」では、飛行機や気球などの機械や大袈裟な道具を使わず空を飛びたいという人類の夢について呟いてみた。
その際、日記ではアメリカの大統領が昨日発表した、人類を火星にという構想に触発されて書いたかのような形になっている。
が、実際は違う。
← J・M・G・ル・クレジオ著『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)
それだけだったら、ちょっと興味深いニュースということでスルーしていただろう。
実は、今読んでいるJ・M・G・ル・クレジオ著の『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)の中の一節に接して、やや大袈裟な表現を使うと共感・同感し快哉を叫ぶという心境に突き動かされて書いたのである。
レイモンド・チャンドラーの小説『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳 早川書房)を読んで、小説を読む楽しみ、その世界に浸りきる楽しみを味わって、さてこの先、これ以上の作品やせめてこれと同等の作家の本に出合うのは至難のことと、やや悲観的になりつつあったが、本書に出合って、呆気ないほどに杞憂の念に過ぎなかったと思わせられた。
チャンドラーの小説は見事ではあるが、あくまで娯楽作品としての傑作なのだ(それがいいとか悪いとか、優劣があるとかの問題ではない)。
世界には読むべき、読むに値する本がまだまだある!
鳥のように空を自由に舞いたい、但し、できれば小道具など使わず、我が身だけで飛びたい、そうであってこそ、人類の空を鳥のように飛びたいという夢が叶ったことになる、なんてことをこのブログでも何度となく呟いたものである。
ただ、日記の中で何かの流れで愚痴るように呟くだけで、そのことだけで単独で記事に仕立てることはなかった。
なので、昨日は敢えてそうした思いの一端を簡単に纏めてみたのである。
ここでは、上掲のル・クレジオ著の『地上の見知らぬ少年』から、当該のくだりを抜粋し転記しておく。
しかし、その前に大雑把にでも本書の意義など触れておいたほうがいいだろう。
1970年代の後半に書かれた本書は、先日の日記でも書いたが、ル・クレジオの転機を示す、ル・クレジオ論を打ち出すなら触れずにはおけない書である。
若い頃の内省的というか、徹底して自意識にこだわり、自意識の破壊にまで至ろうというような内向の文学から、森羅万象を感受し万物に呼応し、どこまでも伸びやかで、広い世界に開かれた文学へとル・クレジオの文学世界が深化し、且つある意味で平明にもなる、その変わり目を示す本のひとつが上掲の書なのである。
正直、ル・クレジオ文学前期の、物質的恍惚という言葉に象徴されるル・クレジオの詩的世界しか知らなかった小生には、本書は衝撃的な本だった。
とはいっても、ここでは深入りしないが、無条件でこの少年の無垢の精神を信じる在り様を受け入れることはできない。
むしろ、違和感さえ覚えたことを告白してないといけないが、それはそれとしても、ちょっと類を見ない詩的随想、原始の感性のみが齎しうる瑞々しい世界の表現を辿り続けることは、驚異の体験に近いものだったことは事実である。
僭越な言い方をするなら、文学観や感性の違いを超えて、一個の世界の屹立を認めないといけないだろう。
さて、御託はこれまでにして、今度こそ当該のくだりの転記に取り掛かる。
ついでながら、老婆心ながら付言しておくが、以下に示す転記文は、本書の中の一番優れた一文というわけではなく、むしろ、こうした文章が延々と続くものと思っていい。
その意味で、本書の文調や感受性の在り様を示す典型的な一文だとは言えるかもしれない。
空を飛べたなら。これこそが本当にかなえたい唯一の夢だ。大地を二本脚で歩くこと、車に乗って町から町へと、国から国へと旅をすること、それも悪くはない。でも飛ぶことときたら! 人間がこれまで発明してきた移動手段は決して満足のいくものではない。あの重たい機械は、準備したり、油を差したり、たらふく燃料を飲ませてやってはじめて、どうにかこうにか動き出すときている。それに騒々しい。あのなかに閉じこめられたままだと、自由の陶酔など味わうどころではない。あまりに遅いのだ。
それに比べて飛ぶことといったら! ヘリコプターや飛行機に乗るのではなく、気球やロケットを使うのでもない。歩くように軽々と飛ぶことだ。大空のなか、風を貫いて伸びる自分の視線をまっすぐ一直線に辿っていくことだ。この身を大地に縛りつけている重みを忘れ、両腕をちょっと振るだけでふわりと舞い、階段を上るように空気の層を次々に上っていく。そして風とひとつに混じり合い、その襞のすみずみまで入り込むだろう。大空の青と溶け合い、このどこまでもがらんとした空間の中心まで、雲のもとまで、光のもとまで行くだろう。風がぼくを水のようにすっぽりと包み込み、やさしい愛撫で洗い清めてくれる。果てしないこの道を、何にも邪魔されず延々と進んでいく。はるか下の平らな大地には田畑が整然と並び、町が点々と散らばっているだろう。水滴の縁のような完璧な曲線を描く地平線が見えるに違いない。自分自身の思考を辿って次から次へと湧きあがるイメージと同じ速度で進んでいくけれど、もはや言語のなかんはただひとつの言葉しかない。眼を凝らして細めることもない。ぼくは初めて本当に進んでいく。目的もなくどこまでも進んでいく。まるで、大空が奏でる終わりのない音楽に包まれて踊っているかのよう、喉だけでなく身体全体で歌を歌っているかのようなものだろう。
ぼんやりとけぶる大地からはるかに遠く離れ、ぼくはきっと自由になっている。もう何ひとつ、誰ひとり必要としてはいないだろう。歌い踊りつづけながら、視線を向けさえすればすぐにそこへ行くことができるので、「近い」とか「遠い」といった区別はなくなっているだろう。
大空を飛ぶものたちは、何かを探し求めることなどしない。すでに別の世界で別の生を営んでいるのだ。それに対して、大地や海や樹木は、ほとんど眠り込んでいる。隠れていたかと思うと、ほんのわずかのあいだ姿を現すだけで、昔から身に染みついたリズムを崩すことはない。それらに向かって、そっちの世界は放っておいてこっちへおいでよ、などとは言えない。けれど大空を飛ぶものといったら! 今ではもう自分の風切羽を震わす風音以外には何も耳に入らず、ただひたすらに飛んでいく。聞こえてくるのは、風に揉みくちゃにされてしゅうしゅうと響く言葉だけ。羽を休めはしない。でもどこへも向かっていない。彼らは大空をさらわれて舞い上がるたびに記憶を捨て去り、これまでの自分とは別の自分になる。自らの影を大地に脱ぎ捨てたかのように、翼を打ち振り自己を超えて軽々と飛翔するのだ。
飛び立ったものは、ぐるりと視線を巡らすようにあたりを眺めているけれど、眼にしたものを持ち帰るつもりはない。飛ぶこととは見ること、それも感覚という感覚を開いて見ることだ。目印となるものが何ひとつない、視界一面に果てしなく広がる青のただなかに姿を消すことだ。
山の頂をかすめ、雲の塊をぬって大空を翔けるものたち。ぼくもあんな風に飛び回るだろう。もう大地の掟に縛られることはないだろう。すべてが一変する。ぼくのためにも、他の誰のためにも、名前などなくなる。定まった形もなくなる。ただ見るだけで、他の人からは見られることのない存在になる。茫漠と広がる灰色に紛れ込んだ微細な黒い点にすぎなくなる。
大空を飛んでいるものは、永遠の生を生きている。かつては確かに、大地に足をつけるか木の枝に止まるかしたまま、囀り、嘴を鳴らし、身を震わせていた。腹を空かせたり、怯えたり、羽に頭を埋めて眠ったりしていた。しかし飛び立ってからは、風のふところに入り込んで新たな何かを知るようになったのだ。重さからも形からも解き放たれて、誰からも見られることなく見ることができるはるかな高みにまで昇っていったのだ。そうしていつまでも天空を舞っている。広大な空間と風に酔いながら紺碧の空と同じ色になって姿を消し、大地をはるか遠く見下したまま、いつまでもいつまでも舞っている。 (本書 p.218-20)
(10/04/18 作)
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