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2010/03/12

『絶滅した日本のオオカミ』より(4)

(「 『絶滅した日本のオオカミ』より(3) 」から続く。本稿の作成の動機などについては、ここを参照のこと。)

Honshuwolf_statue

← 「ニホンオオカミ終焉の地碑石像」 (画像は、「ニホンオオカミ - Wikipedia」より)

  オオカミ絶滅の結果続き

 飢饉のとき百姓たちは塊茎を掘り、イノシシと命を繋ぐ食物を巡って争った。そして数千人(八戸の人口の約一割)が、八戸藩史が述べるところの一七四九年の「イノシシ飢饉」で死んだ。歴史家の菊池勇夫は小氷河期の気象、焼畑耕作、単作農業、東北地方におけるオオカミ狩なども重なって、この地区で頂点に立つ捕食者不在のなかで、イノシシの数の爆発的増加を誘発したと論じている。当時の歴史資料が事実上存在しないので、これを検証するのは難しいが、前世紀にはよく見かけたのに一八世紀にはオオカミを目撃することが稀になったと年代記編者が記録していることから、オオカミの数は少なくとも八戸では減少していたのであろう。

 ごく最近、本州中部のもっとも原始の状態が残された日光国立公園で、生物学者たちがシカによる過度の食害の影響を報告している。この問題を呼びかけるために、日本オオカミ協会と日光保全グループが合同でシンポジウムを主催し、シカの数の増え過ぎとオオカミを日光に再導入した場合の想定効果に関する記事を、一年もしないうちに『フォレストコール』という小冊子に載せた。参加者の一人、宇都宮大学農学部の小金沢正昭は、日光の水辺林におけるシカの数の爆発的増加による損害効果について要約した。彼の説明によると、栃木・群馬県境(日光国立公園が存在する)にあるこの二五〇〇平方キロメートルの土地に、一九九八年時点で推定一万二〇〇〇頭のシカが棲んでいる(一平方キロメートル当たり4・8頭で、イエローストーンより多い)。特に、日光鳥獣保護区では一平方キロメートルあたり二〇頭のシカがいる。この割合をイエローストーンに当てはめれば、現推定数九万五〇〇〇頭は、一九万頭というとうてい支えきれない数になる。小金沢はこの爆発的に増えたシカは農林業の損害を増大させていると指摘している。実際、一九八八年には二五万円だった被害は一年後には二〇倍になった。小金沢は、オオカミの絶滅ではなく暖冬がシカの数を増やした、しかし明らかに、日光にオオカミのような捕食獣がいないことが、この状況を悪化させていると力説した。
 それ以前、一九九二年、生態学者のチームが日光の白根山麓にある中禅寺湖西側の千手ヶ原に実験区域を設定した。これはシカが草本群落にどんな影響を与えているか正確に測るためのものであった。一九九八年、彼らはその調査結果をインターネットで速報として流した。実験区域である千手ヶ原は河川氾濫域であり、原生河岸林は主にニレ・カシから成る。イエローストーンのラマー谷とほとんど同じように、日光の研究者たちは一定区域からシカを締め出すことによって、シカの増え過ぎたことが植物相にどんな影響を与えているかを測定するために千手ヶ原の一画を柵で囲った。そこでわかったことは、一九九四年までに、シカは研究対象区域からササをほとんど全滅させて、同じキク科の二種類の植物キオン(Senecio nemorensis)とサワギク(Senecio nikoensis)のみが地面を覆っていた。大事なことは、この二種は同じ属で、食べれば肝臓に蓄積するのでシカは食べない。樹木に関しては、一九九二年から九四年までの二年間に、ある一区画で一三%が樹皮を剥がれた。ニレとキハダの場合は約五〇%が樹皮を剥がれ、ニレ一七%、キハダは四%が損傷で枯死した。イエローストーンの場合と同じように、オオカミの絶滅は(気象条件などとも結び付いて)日本でわずかに「原生自然が残る」場所の生態的平衡を破壊した。
 しかし恐らく、日本でのオオカミ絶滅に付きまとう最大の結果は、このような野生の地を静まりかえらせる、際立った沈黙だろう。日本オオカミ協会の日本へのオオカミ再導入の企てについて書いた人類学者ジョン・ナイトは、奈良県野生生物保護委員会の人々がニホンオオカミは本当に絶滅したかどうかを見極めるために行なった実験について語っている。ナイトの説明によると、オオカミを目撃した、ハウルを聞いた、オオカミのような足跡や糞を見つけたあんどという報告があり、宇江敏勝などの自然愛好家たちは最近までオオカミは絶滅していなかったとまで大胆に主張している。実際、オオカミに関する報告の一覧や、一九〇五年の絶滅日時に反論する記事を載せた数冊の本が発行されている。特に宇江は、樵の話に基づいて太平洋戦争後に日本の産業が復活して大規模な森林破壊を起こし、オオカミの棲息地を消滅させたことがオオカミを絶滅させたと論じた。一九三五年という時期まで、宇江と家族が住んでいた山地で、宇江の父と他の樵たちはオオカミを見たり、その声を聴いたりしたという。宇江によると、狂犬病や狩猟ではなく、産業的伐採によって日本のオオカミは一九四五年以後のいつ頃か、最後のものが死に絶えたという。
 日本の山奥にオオカミがなお生き残っているかどうか確かめるために、奈良県野生生物保護委員会のメンバーが神聖な吉野の山々(オオカミ記念碑がある場所で私がこの物語を始めた場所の近く)を訊ねた。彼らはカナダオオカミのハウルを収録したテープを持参し、それを一晩中流して「たいへん縄張り意識の強いオオカミ」をおびき寄せようとした。それが行なわれた場所はその山中でも有望そうな場所だったが、テープの声に応答はなかった。かつて活気に満ちたオオカミの群れの居た場所だった神聖な吉野の山々は沈黙したままだった。埼玉県の三峯神社の近くで行なわれたこの実験の続きに、ナイトも実際に参加した。注意深く置かれたテープレコーダーは、シカ、小鳥、それにサルまでもが発した音を拾ったが、オオカミの声はなかった。
 日本の関係者がこの国の神聖な山々で注意深くオオカミの声を聴こうとしたが、なにも聴こえなかった。これは私にとってとても悲しい話しだ。人々はその自然界、国の遺産の生命の鼓動を探り当てようとしたがそれはもうなかった。この人々が聴いたのは、オオカミ絶滅に伴う沈黙だけでではなく、いまのペースで環境と生物を無慈悲に侵し続けるなら、それは私たち人類全体を待ち受けているもっと大きな地球上の沈黙の一例だった。

                            (10/03/12 転記)

三峯神社 - Wikipedia

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