ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』雑感(2)
前回に引き続きジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて 上・下』をもとに多少の考察を試みたい。
が、その前に多少の訂正がある。本書は「上・下」の二分冊となっている。上巻は前回の冒頭で示したように、訳者は、三浦陽一・高杉忠明の両氏でいいのだが、下巻は三浦陽一・高杉忠明に加えて田代泰子氏の三氏による共訳になっていることに、あとになって気付いたのである。申し訳ない。
何しろ、前回を書いた時点では、本文にさえ入れないまま、ざっと捲ってみて受けた印象で好感を覚え、その上で「日本の読者へ」という筆者による日本版が出るに当たっての挨拶文でもう、ちょっと言及なり引用なりしてみたく思ったのだった。今回は本書の「序」のなかのあるくだりで気になる記述があったから、その点を紹介するつもりである。この分では、下巻に辿り着くのはいつになることやら、である。
本書の序より引用する(p.12-13):
ふつう、われわれは一九四五年八月をもって軍国日本と新生民主日本との大きな分水嶺とみなしている。たしかに、それはひとつの分岐点であった。しかし一九三十年代初期から一九五二年までずっと、日本は基本的に軍事支配の下にあったともいえる。マッカーサー元帥とその司令部がいかに高尚な心でいたにしても、彼らは新植民地主義的支配の領主として、対抗者もなく批判もされない状態で、新しい領地を支配したのである。天皇とその官吏が不可侵であったのと同じように、マッカーサーたちもまた不可侵の存在だった。占領軍は権力構造の頂点にあった。占領軍はたんに敗北した敵のうえに君臨しただけでなく、自分自身が内部に厳格な階級制度をもち、また自分が信奉する白人支配の鉄則をも表現していた。すなわち、日本占領のもっとも悪質な点のひとつは、帝国日本の略奪行為によってもっとも被害を受けたアジアの人々――中国人、朝鮮人、インドネシア人、フィリピン人――が、この敗戦国でまともな役割、影響力のある立場をなんら獲得できなかったことであった。これらのアジアの人々は、目に見えない存在となってしまった。「太平洋戦争」におけるアメリカの勝利にすべての焦点があたったために、日本帝国の陸海軍人を打ち負かすうえでアジア人たちが成し遂げた貢献は、なかったかのごとくに見えなくなってしまった。これと同じ消失のメカニズムによって、戦争中だけでなく植民地時代にアジアの人々に対してなされた数々の犯罪にいたっては、いっそう容易に、まるでなかったかのようにみなされた。 …マッカーサーとその側近たちは、天皇の戦争責任ばかりでなく、天皇の名において残虐な戦争が許されたことにたいする道徳的な責任さえも、すべて免除しようと決断していた。……すくなくとも天皇の道徳的責任は明白であった。ところが、この天皇の責任について、アメリカ人が単に見て見ぬふりをしただけではなく、否定さえしたために、「戦争責任」という問題の全体が、ほとんど冗談になってしまった。その人の名において、二〇年にわたり帝国日本の外交・軍事政策が行われてきた、まさにその人物が、あの戦争の開始や遂行に責任を問われないとしたら、普通の人々について戦争責任をうんぬんしたり、普通の人間が自分自身の戦争責任を真剣に考えるべきだなどと、誰が思うだろうか。
悲しいかな日本の指導層は、軍部官僚も実業家も右翼も保守層の政治指導家も末端の役人にいたるまで、ほとんど誰も戦争責任など考えなかった。むしろ、戦争終結の混乱に乗じて、今後のために蓄えられていた物資や財産の徹底的な分捕り合戦を演じる始末だったのである。戦後、長らく混乱が続いたが、それは確かに財政的逼迫とか、占領軍たるアメリカ軍兵士らの接待に膨大な予算が食われたということもある(豪華なアメリカ軍の住宅!)。
しかし、本来、国家や国民のために使われる財産や物資は横流しされ、闇市で売りさばかれることで、莫大な利益があがるため、健全な状態の経済状況になるよりは、混迷状況が長く続いたほうが彼ら(戦前からの既得権益を有し、且つ戦争遂行の上での判断上、責任を負うべき連中)には都合がよかったのである。
その闇市の周辺では、日々、どれほどの人たちが飢餓に苦しんだことだろう。
そうした連中が、ほとんどすべて戦後も生き延び財産を蓄え、日本の経済や政治機構の中枢を形成していったわけである。
バブルが弾け、やがて不況に陥って久しい日本だが、政治家をはじめ、役人も銀行幹部も、誰一人責任を取らないばかりか、責任という発想すら浮かばないのは、真っ先に戦争責任を回避した先輩のトップ連中を見習っての長い伝統なのだ。ここにはモラルもなければ、責任意識の欠片もない。あるのは保身だけだ。
北朝鮮との関係改善がうまくいかないのは、様々な理由があるのだろう。金丸信訪朝団のドジ(安易な賠償金の約束)もあろう。また、北朝鮮を仮想危険国として維持しておくことで、軍事態勢を固める口実にできるから、簡単に良好な外交関係に発展させるわけにはいかないという事情もあろう。
拉致問題がネックになっていることも周知のとおりだ。その拉致問題で日本が、では、なぜ強い態度で交渉に望めないかというと、前記の理由もあるが、戦争中の朝鮮人の強制連行の問題を放置(頬かむり)しているからである。が、この強制連行問題に関して日本政府が知らん顔でいられるのは、なんといっても日本の国民が無関心だからだ。なんだか、遠い日の悪夢を指摘されているようで、目を白黒させるだけなのである。
そもそも拉致問題は、日本政府当局の道義的問題(被爆者問題、従軍慰安婦問題、捕虜への虐待etc.)への無神経ぶりからすると、彼らには本来、全く視野に入るはずもない問題である。それをここまでクローズアップするというのは、北朝鮮とは国交を持ちたくないから、入り口で思いっきり高い障壁を設けることで、外交的に一切、北朝鮮とは進展を図らないという当面の意図が垣間見える。
こうした結果がアメリカ軍の占領政策の負の遺産としてあるということを、評価すべき多数の遺産を思うと同時に、忘れてはならないと思うのである。
(02/03/30)
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