『敗北を抱きしめて』雑感(9)
5月1日付け朝日新聞夕刊に評論家(で漫画の原作者でもある!)大塚英志氏による "「戦後史」すら与えられた国で "と題された一文が掲載されていた。どうやら憲法記念日を前にということでの小文のようだが、副題として「理念に忠実でなかった僕たち せめて国際仲介役できないか」とある。この副題は誰が付けたのか、分からない。新聞社の編集部のほうで付されたのだろうか。
小生は大塚英志氏のことは、あまり知らない。昨年、ひょんなことから『「彼女たち」の連合赤軍』を読んだことがあるだけである。
彼は朝日での一文の冒頭、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』が話題になった時、書評を求められたが、結局書かなかった、それは「一読して感じた生理的ともいえる不快さを払拭できなかったからだ」と記している。
その不快さを彼は次のように説明している:
ぼくが感じた嫌悪はだから同書の欠点に対してではなく、戦後史さえも「彼ら」に書かれてしまった自分たち自身への深い忸怩に他ならない。(大塚氏)
悲しいことだが、この点、小生も同感なのである。別に戦中・戦後史について細かくフォローしてきたわけではないが、纏まった形での「敗戦」前後を展望した分析の書は、ついに現れていないように思われるのだ。
同書は、一読して分かるように必ずしもアメリカの占領政策を単純に善しとして敗戦前後の日本を見ているわけではない。むしろ、かなりアイロニーに満ちた描き方さえ、占領軍や占領政策の混乱についてなしている。
それでも、小生は、読んでいてある種の諦めに近い感を持ちながら、ここまで拾い読みの形ではあるが、本書を追いかけてきたのである。これだけの史書を日本人の史家は書けないのだろうか。
ところで、現行の日本国憲法は占領軍の押し付けであり、自前の憲法をという論議が近年、喧しい。
では、明治憲法は自前だったのか。敢えて自前だったとして、大方の、日本人にとっては、所詮はお仕着せであり、上からの押し付けであり、どう贔屓目に見ても、大多数の日本人には、裃(かみしも)か余所行きの、そして急造の、天下りの決まりごとに過ぎなかったのではないか。
明治維新自体、大方の日本人にとって、権力の移譲であり、お役人の謙る(へりくだる)相手が将軍から天皇へと変わっただけで、訳の分からない状態にあったのではないか。中央の権力者にとって権威の在所は大事であっても、庶民には一方の遠い将軍さまから、とうに忘れられていた天子さまに移っただけで、どっちにしても上からの強制であることには、変りはないのだ。
つまり、占領政策の中で民主主義などが与えられたとして、それがどれほど定着しているか疑問に持つ人が多いように(実際、ヨーロッパのように戦いで自らが勝ち取った理念ではないのだから、むしろこれからの努力が大切なのだろう)、憲法も現行のものも含め、自前の憲法というのは、日常レベルからの論議の積み重ねからしか持ち得ないものなのだ。
それにしても、現行の平和憲法が、お仕着せの民主主義のもとであろうと、とにかく維持されたのは、戦中戦後の艱難辛苦に耐えた経験者達の痛恨の体験と悔恨の念があったればこそである。その「戦場へ二度と若者を送るな」「二度と戦争は繰り返さない」というスローガンも、今ではかなり痩せ細った、リアリティのないものになりつつある。
むしろ、この希薄になった戦争体験の中での新たな、そして地に付いた経験の引継ぎこそ大事なのではないか。
勇ましいことは、言うだけなら誰でも言える。何かことが起こったら、強硬な意見のほうが耳障りがよさそうに聞こえてしまう。何となく断固たる態度を示しているように見えるわけだ。
「国際社会の中で名誉ある地位を占めたい」のなら、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という発想が肝腎なのだろう。但し、「自国のことのみ」とは、一体、どういうことなのか。一国平和主義ということか。思うに、他国を無視せず、国際的な場において仲介役などを果たすとか難民支援などをなそうというなら、まず、自国の、つまり日本の戦争責任をしっかり再検討して、過去の負の遺産を払拭することだ。そのことによって初めて、国際的に尊敬されることが見えてくるかもしれない。
それを例えばインドネシアなどで成功しつつあるかに見える、なし崩しの他国との和解を目指すなら、所詮は経済力だけの国、黄金の国ジパングというだけのことで注目され利用されるだけで、そのカネを無くしたら、全てを失うに相違ない。
過日、小泉首相が靖国神社へ急遽参拝した。昨年の反省が何も生きていない。日本人の多くの人にとって、50年以上も前のことは、二世代も昔のことで、何を今更という発想を持ちがちだ。
しかし、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も千年、二千年のタイムスパンの中でモノを見詰め考える発想法が染み付いている。それが日本にはない。インドネシアだってイスラム教徒が圧倒的に多い国なのだ。内心は日本を軽蔑しているのだろう。日本は責任をちゃんと果たせない国なのだ。だから日本に期待できるのは経済的支援と交易だけ。それ以外の何物でもない…。
歴史というと、百年も前も千年も前もゴチャゴチャに混ざってしまって、歴史の個々の事象の積み重ねという発想法が薄いように感じられる。
歴史は、何処かの古びた由緒あるお寺のように苔と黴と森とに覆われていくもの、例えちょっと前に血生臭い事件があっても、それも時間の風化の中で遠い夢物語に成り果てる…。
しかし、自国を考えるとは世界の中で考えることでもあり、自分の都合のいいほうにだけ考えていくことではないはずだ。そうは問屋が卸さない。「南京の大虐殺を忘れている者は、日本の保守派以外にだれ一人いない」(p.427)のだ。
日本はサンフランシスコ講和会議で日米の間の平和条約を締結し、「独立」した。しかし、それは高い代価を払ってのことだった。" 日米安保条約と、これに付随して作成された「行政協定」は、戦後合衆国が締結した二国間の取り決めのなかで最も不平等なものとなった。" (p.410)
アメリカは日本に治外法権を要求し、法外な数の軍事施設を得た。沖縄は本土復帰がなった後も、米軍基地の島であり続けている。日本の空はアメリカのものであり続けている。制空権が他国にある独立国家など、どこにあろうか。そもそも独立国家とは呼べないのではないか。
本当に自前の憲法を持つとか、自国のことだけではないく他国のことにも口出ししようというなら、まず隗より始めよであり、アメリカに対して友好国であり続けるのだとしても、きちんと自国の理念を語れるように努力するべきなのだ。
どう見ても、そんな準備も覚悟も見受けられない。難民支援といいつつ、自国には一切、受けいれない。これは自国のことにのみかまけている典型的事例の一つに過ぎない。自国のことにのみかまけていないとは、鎖国政策をやめ国際交流を自国の中においても促進することだ。
そんな覚悟もないくせに、有事法制だけ自衛隊の制服組の都合のいいように国民に強制しようとしたって、腰が引けているという姿勢が透けて見えるのである。「日本は軍事的にワシントンからの指図に従属しているがゆえに、外交的にいやおうなく従属してきた。そうである以上、戦後のナショナリズムを満たすべく日本の指導者たちに残された唯一の現実的方法は、経済面にしか存在しなかった」 (p.427-8)
保守論壇では長い間、若者たちが悲しむべき犯罪を起こす度にそれは日本国
憲法下の「自由」や「平等」がもたらした弊害だと語られてきた。(大塚氏)
それは、とんでもない論点のすり替えであって、実際には安保とそれに付随する極端に不平等な協定にある。そして経済的復興のみに邁進した日本の国家政策にある。経済効率と大量生産と大衆消費とに、農村や地方の町の荒廃を犠牲にしてまで、突っ走った。バブルはその頂点だったのだ。
アメリカと真正面から安保政策も含め話し合う覚悟はあるのか。戦争責任をまともに論議しなおす覚悟はあるのか。覚悟を担保する理念はるのか。ないくせに自前の憲法をなどと騒ぐのは、論点の誤魔化し、負け犬の遠吠え(アメリカには面と向かって何も言えないので、せめて内向きに軍備体制の強化の形で強がってみせる)に他ならない。
軍備をいくら強めたって、制空権も含め占領下にある現況をこのままに、ワシントンの意向に従属する発想しかないなら、役に立たない、カネのかかる玩具を増やす結果だけに終わりかねないのだ。
「裕仁が在位した最初の二〇年間に日本が犯した略奪行為を、わかりやすく誤解の余地のない言葉で認めて謝罪することに関しては、この世代(戦後最初期の)指導層は残念な結果しか残さなかった」(p.427) それは、「東京裁判史観の鵜呑みにつながると思われたのであろう」(p.427) この「愛国心のおかげで、日本は世界の多くから軽蔑と不信を受けることになった」この払拭は、後継者たちの重い課題であり続けている。
「日本はどうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力でもつことなく、世界の国々や世界の人々からまじめに言い分を聞いてもらえる国になれるのか?」 (p.427)
「日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義化という目標も今や捨て去られようとしている」(p.429)
今の個人情報保護法案などの拙速な導入の仕方を見ていると、治安維持法が形を変えて復活をしつつあるという恐怖を覚えるのは小生だけであろうか。
(02/05/07)
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