« 『絶滅した日本のオオカミ』より(2) | トップページ | 『絶滅した日本のオオカミ』より(4) »

2010/03/11

『絶滅した日本のオオカミ』より(3)

(「『絶滅した日本のオオカミ』より(2)」から続く。本稿の作成の動機などについては、ここを参照のこと。)

  オオカミ絶滅の結果

 一九九二年七月、アメリカ国立公園局の局員たちは、非常に詳細で多岐に渡る報告書を議会に提出した。それは「絶滅の危機にある種の法」(ESA)に述べられたガイドラインの下に、オオカミをイエローストーン地区に再導入すべきか否かに関するものだった。「イエローストーンにオオカミを?」というタイトルのこの報告書は、イエローストーンにオオカミがいた歴史的事実、オオカミの再導入に伴う社会・経済問題から将来のオオカミの管理、広域イエローストーン地区の生態系とオオカミの相互作用などの問題に触れている。オオカミは、連邦のハンターが彼らを滅ぼし駆逐するまでは昔からこの地区に棲み、有蹄類はこの「頂点に立つ肉食獣」の帰還を十分支えるだけの数がいると、この報告書は状況設定している。牧場主やハンターはイエローストーン地区へのオオカミ再導入に反対したが(その大多数はいまでもそうだ)、他の人々は違った。そのため報告書はイエローストーンへのオオカミ再導入の初期段階への道を拓いた。

 一九九三年七月、モンタナ州ヘレナの内務省魚類野生生物局は、イエローストーン地区とアイダホにオオカミを再導入するという、論議多き提案に関する環境影響評価書(EIS)の草案を作成した。イエローストーン圏生態系地域(ボーズマスも含む)は広さ六万四〇〇〇平方キロメートル(その七六%は連邦の土地)で、およそ九万五〇〇〇頭の有蹄類が棲み、ほかに約四一万二〇〇〇頭の家畜が放牧されている。連邦当局がイエローストーンにオオカミを再導入してオオカミの群れが回復したら、エルクの数は五~三〇%、シカは三~一九%、ムースは七~一三%、バイソンは一五%減少するだろうと環境影響評価書は説明している。また、イエローストーンにオオカミがいても、毎年この地区にやってくる一四五〇万人の観光客に影響する(実際は訪問者が八増えると予測した)ことはないが、毎年一万四三〇〇頭も有蹄類を殺していた大物ハンターたちは、獲物となる雌のエルク・ムース・シカの数が減ったと証言するかも知れないと環境影響評価書は分析している。さらに重要なのは、野生の獲物が多いので、オオカミが家畜被害を起こすことは少ないだろう(年にウシ一九頭、ヒツジ六八頭と予測)と述べたことである。一九九三年夏までに、アイダホ・モンタナ・ワイオミング州の各地で一般市民の意見を聴いた後、連邦政府は、カナダからイエローストーンと中部アイダホにオオカミを連れて来るという、こまででもっとも論議を呼んだ環境問題の発議に取りかかった(実のところ、オオカミ再導入の発議は、連邦政府の決定がそもそもオオカミを全滅させることだったことを思えば、まさにドラマチックだった)。
 一九九五年一月、連邦のオオカミプロジェクトの生物調査官たちは、アルバータから連れてきた一四頭(三家族群)のオオカミをイエローストーンの三ヵ所の金網の囲いに収容した。そして彼らは三月末に自然に放たれた。翌年、公園局の生物調査官たちは、ブリティッシュコロンビアからイエローストーンに連れてきた別の一七頭のオオカミ(四家族群)を放した。モンタナ北西部で州の管理規程に従って捕獲された別の一三頭(うち一〇頭は仔)を移し入れて、オオカミの数は、一九九八年には7パック(パック=群れ)、一一六頭に達した。今日、イエローストーン内外には数百頭のオオカミがいる。昔の数にはとうてい及ばないが、この姿は環境保護活動家たちの、これまででもっとも成功した取組みの一つと思われる。だが、イエローストーンへのオオカミ再導入に火を付けたのは保護活動家たちの理想のみではなかった。それよりも、生物調査官と公園当局は、二〇世紀初頭のイエローストーンでのオオカミの絶滅が昔の生態的平衡を崩し、有蹄類を爆発的に増加させて過放牧状態になり、イエローストーンの風景を変えてしまったことに気がついていた。オオカミ絶滅の結果として目に見える一例は、エルクの過食によりイエローストーンが砂漠のようになったことである。例えば、生物調査官たちがラマー谷で周りをフェンスで囲ってエルクが入れないようにした、アスペン[ポプラなどハコヤナギ属の植物]の繁茂した木立は、過食がいかに悪影響を及ぼすかを示すものである。
X12280652

↑ 「アスペン」 (拙稿、「地球上で最も大きな生体:アスペン」を参照のこと)

 日本でも、オオカミの絶滅は恐らく同じような結果をもたらしたことだろう。例えば、一七四〇年代といった昔の時代に、遠い東北地方の八戸藩で、オオカミを殺したことがイノシシと高地の換金作物の大豆などを作る農民との間の生態的平衡をひどく壊した。その農業は商業経済の勃興と厳しい気候の変化が合わさった影響ですでにぐらつき始めていたのだ。一七三〇年代から四〇年代にかけて、八戸の百姓たちは、城下町を取り巻く丘陵地帯の焼畑耕作を増大させ、大豆単作畑用に近隣の森を伐り倒し、焼いて新しい開墾地を造った。彼らは大豆を江戸や大阪に運んだ。苦しい藩財政に資するためにはなにがなんでも必要だったのだ。耕作した土地にはヤマノイモやクズなどの塊茎植物が繁茂し、イノシシも繁殖した。彼らは塊茎を食べ、森の端にある繁茂した下藪を隠処にした。

                           (10/03/11 転記)

『絶滅した日本のオオカミ』より(4)」へ

|

« 『絶滅した日本のオオカミ』より(2) | トップページ | 『絶滅した日本のオオカミ』より(4) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

科学一般」カテゴリの記事

社会一般」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『絶滅した日本のオオカミ』より(3):

« 『絶滅した日本のオオカミ』より(2) | トップページ | 『絶滅した日本のオオカミ』より(4) »