渡邊大門著『奪われた「三種の神器」』を読む
図書館へCDを返却、当然ながら新たに物色して借り出しに行った。
カウンターを過ぎてCDのラックへの途中に新入荷本のコーナーがある。
今、やや大部の本を読んでいるので、合間に読む(重さや大きさの点で)軽めの本を物色。
すると、興味深い本を発見。
← 渡邊大門著『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』(講談社現代新書)
それは、渡邊大門著の『奪われた「三種の神器」』(講談社現代新書)なる本。
副題が「皇位継承の中世史」となっている。
出版社による内容紹介では、「壇ノ浦の合戦、南北朝の対立、皇位奪還を狙う後南朝──。鏡・剣・玉という、歴代天皇の皇位継承のシンボルを求めて繰り広げられた争奪戦を通して、中世期の神器をとらえなおす1冊」となっている。
古代史との絡みでは、それなりに「三種の神器」への関心は持つし、天皇(皇位)との関係では記述はないほうが珍しいだろう。
しかし、平安時代や、まして中世となると、関心が急に薄れてしまう。
それは、小生自身の探究心の薄さもあるが、歴史学(日本史)においても、それほど研究が進んでいない、あるいは、何故か関心があまり払われないという事情にも大きく依っていると気付かされた。
本書の筆者による「はじめに」にもあるが、以下の事情があるようだ:
「三種の神器」の研究は、皇位継承や朝廷の諸儀式が追求されるなかで、主に古代史を中心にして行なわれてきた。単に歴史学だけではなく、国文学や宗教学等からもアプローチがなされている。
ただし、これが中世史になると、研究文献が極端に少なくなり、研究があまり進んでいるとはいえない。中世の知識人が著したいわゆる「三種の神器論」も、抽象的な内容であり、一般の方にはなじみにくい。
念のために書いておくと、「三種の神器」とは、「天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする」八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉で、「日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物」である。
「三種の神器」については、結構、有名な史実(物語?)もあり、その命運の一端は知られている。
「壇ノ浦の戦い - Wikipedia」での記述を援用させてもらうと、「寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが」、やがて義経軍に追い詰められ、以下のような悲劇に至るわけである:
『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
結果、「入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位ノ尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した」わけである。
つまり、仮に皇位が成立した当初からの「三種の神器」が壇ノ浦の戦いまで不変なものとしてあったとしても、この戦いで少なくとも、宝剣(天叢雲剣)は海に没したまま…失われてしまったわけである。
ここでは詳しくは書かないが(本書に詳しい)、壇ノ浦の戦い以降も、「三種の神器」のそれぞれが数奇な運命を辿ることになる(例えば、神鏡は少なくとも三回は焼損している)。
いずれにしても、無傷なままの「三種の神器」は一つもなくなってしまうのである。
では、皇位の継承は、あるいはそもそも皇位の権威はどうなる。
実のところ、とんでもない理屈が生まれてくるのが中世なのだ。
「三種の神器」が(その全て、あるいはどれかが)なくてどうやって皇位を成り立たせるか、継承するか、歴史の前例を血眼になって探して、取り繕うのだが、そのうち、「帝のおわす所が三種の神器があるところ」と強弁され、ついには、「天下に三種の神器が存在していればそれで構わない」とまでに理屈付けられていくのだ。
これを屁理屈と言わずして何というと、門外漢の小生などは考えるが、帝も貴族連中も、これで安泰・安堵とばかり。
開き直りもいいところである。
天下に存在していれば、とは、北朝ではなく南朝方に、どころか、海の底に沈んでいても構わないわけである。
人間というのは、凄いことを考えるものだと感心させられた。
いずれにしろ、「三種の神器」の命運と共に(命脈が尽きると共に)、貴族の世から武士の世へ代わっていく。
権威と権力が明確に分離されていく(仮に本物で実物の「三種の神器」があったら、奪われたり損失しないよう実力で護らないといけないが、帝と宝物のレプリカがあればそれで十分となれば、武力など要らない、権威さえあれば十分となる)。
我に権威あり、と思い込み、断固、言い張り続けるなら、誰にも反論もできないし、実際、誰からの疑義も跳ね付け続けてきたわけなのだろう。
無論、皇位継承の歴史は中世に終わるわけもなく、近世、近代、明治維新……と続いていく。
この辺りはまた別の書で調べてみたい。
本書を読みながら、権威が権力から自立していく過程(あるいは逆もまた真か)が中世なのか、それ以上に、権威を保つ者たちのしたたかさを思い知らされるようでもあった。
本書の内容紹介で、「壇ノ浦の合戦から後南朝まで―― 天皇の証をめぐる壮絶なドラマ!」とあるが、掛け値なしにドラマチックな本だと言えるだろう。
(10/02/26 作)
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コメント
はじめまして。著者の渡邊大門と申します。拙著をお読みいただき、誠にありがとうございました。私もHPやブログを持っておりますので、よろしければお立ち寄りください。取り急ぎお礼まで。
投稿: 渡邊大門 | 2010/03/02 09:15
渡邊大門さん
著者の方にコメントを戴くとは、びっくりしています。
興味深いテーマでした。
投稿: やいっち | 2010/03/05 21:23