『敗北を抱きしめて』雑感(4)
「A級戦犯の裁判も終わりに近づいた一九四八年、犠牲者意識の問題をまるで万華鏡のようにさまざまに追求した三冊の本がベストセラー入りした。一冊は太宰治の『斜陽』であり、もう一冊はドストエフスキーの『罪と罰』の翻訳であった。そして三冊目は永井隆の『この子を残して』である」
最後の『この子を残して』というのは、「占領軍が許可した原爆投下に関連する書籍の最初期のものであった」。
また、「放射線病で死の床にあった長崎の若い科学者・永井は、核による破壊とその後の救いに関する深い考察をつづって、日本中を魅了した」という。
彼は、長崎に多数居るキリスト教徒の一人だったが、一九五一年に四三歳で死亡した。
占領下にあった日本において、原爆の投下や核に関する話題はタブーであり、出版や言論も許されていなかった。
その中で、永井の書籍が許可されたのは、『敗北を抱きしめて 上』の中に引用されている永井の本からの引用によれば、「長崎は、第二次大戦中のすべての国の罪を償うためのいけにえとして祭壇におかれ完全に焼け殺された選ばれし犠牲者、けがれなき子羊ではなかったか」という論調・姿勢にある。
いかに平和を願おうと、この姿勢には当時の日本人でもガッカリさせるものがあったが、この黙示録(ジョン・ダワーの表現)のような口調であるからこそ、許可されたのである。
以下、ジョン・ダワーの書より引用する:
…しかし、永井が日本人の平和への願いを高めたことは、誰も否定できなかった。と同時に、永井の文章は感情に流れやすく、まるでメロドラマの殉教者のように、簡単にあきらめて死を受けいれる態度がみられたし、またこの本が世に出たときは、原爆体験からそうとう時間がたっていた。ちょうどそのころ、平和と人間性にたいする罪のかどで、[東京裁判において]勝者による日本人への判決がでようとしていた。こうしたことが、そのころ強まりつつあった日本人の犠牲者意識の内容に影響を与えたのである。こうして、戦争そのものが「犠牲を生んだ張本人」だと意識され、同時に、日本人は現代戦のもっとも典型的な犠牲者であって、聖人・永井は、父であり医師であり科学者であり、被爆都市で死のまぎわにあった人物であり、日本人を象徴する存在のように思われた。つまり、われわれ日本人は悲惨をこうむり、気高い犠牲を払ったのだという日本人の意識を強める新しいシンボルとして、永井が現れたのである。(p.253-254)
…『きけ わだつみのこえ』が戦後日本人に永続化させた犠牲者意識は、じつは戦争中に軍国主義が人々にかきたてていた意識に、危険なほどに似ていたのである。学生たちは純粋な若者だちだった。彼らの死は気高いものだった、彼らに罪はないし、まして、軍国主義に抵抗しなかったからといって批判などすべきでない。もっぱら注目すべき、ほんとうに悲劇的なものは、彼ら自身の死であって、彼らが殺したかもしれない人間たちの死ではない――。こうした閉鎖的な戦争観をもっている以上、日本人以外の犠牲者はまったく目に入らなかったのである。さらに注意すべきことは、彼らの死がこれほどまでに注目された理由は、彼らが洗練された文章が書けたからであり、エリート大学生という地位にいたからだという点である。ここには、エリート大学生の死はとりわけ悼むべきだというアカデミズムの世界の編者の偏った感覚が、はからずも表れていた。これらの学生たちは、文章がうまかったからだけではなく、将来は日本の指導者になると思われたからこそ、とくに悼むべき人々として選ばれたのであった。(p.256)
…そもそも本のタイトルじたいが含みの多いもので、無言のうちに過去の響きを伝えていた。というのは、「わだつみのこえ」(海の声の意)とは、軍国主義者が好んで引用した『万葉集』から採った言葉だったからである。こうした言葉の架け橋は、人々が過去とのつながりを維持し、目的をもって生きるためにきわめて重要なものであったが、簡単には評価しにくい、方向のあいまいなものであった。人々は、過去から逃げ出し、新しい目的地をめざすために昔ながらの言葉を利用した。そして同時に、言葉の架け橋を渡って、人々がふたたび過去へと帰ってしまう可能性――あるいは誘惑――が、そこには常にあったのである。(p.257)(引用終わり)
占領当局の意図と戦争中の戦争遂行責任者の意図とが合致して、日本人はみんな戦争の犠牲者であり、悪いのは、極一握りの連中なのだ、戦争前の何か純粋な思い、平和への願いに立ち返ることだ…。
ここには、一切の加害者責任が喪失している。あるのは、ある種のセンチメンタリズムだけである。アジアの人々や捕虜に戦争中何をしたかという反省がないばかりか、そもそもそうした加害者としての過去や事実が、日本人の意識からきれいさっぱり抜け落ちていったというのである。
(02/04/17)
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