『敗北を抱きしめて』雑感(8)
今、俗に「太平洋戦争」などと呼び習わしている、日本が関わった戦争の名称。小生は、いつも、どう呼べばいいのか、迷ってしまう。「第二次世界大戦」というと、どこか世界史っぽいし、どこか欧州での戦争に焦点が絞られているようで、日本が関わったという印象が薄れてしまう。まさに、世界の歴史の中に埋没してしまいそうに感じてしまうのだ。
もちろん、日本が世界の歴史の流れの中にあって、余儀なく戦争への道をひた走った面もないわけじゃない。が、今は、その点には触れない。
さて、ほかに「大東亜戦争」とか、「十五年戦争」とか、いろいろありそうである。
ところで、戦争に関するSCAPによる検閲政策のなかに、用語の変更に至るものもあったようである。
ちなみにGHQは、「General headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers」の略であり、連合国最高司令官総司令部である。SCAPとは、「Supreme Commander for the Allied Powers」の略であり、連合国軍最高司令官、つまりは「General Douglas MacArthur (1880-1964)」を指す。
実際には、SCAPは、マッカーサーその人というより、マッカーサーの下で働くスタッフを指すわけで、GHQ/SCAPと、一体化して表記されることも多い。 さて、戦争に関する検閲政策により、戦中そして終戦直後、日本人がアジアでの戦争を指して使っていた「大東亜戦争」という呼称が禁じられ、代わりに「太平洋戦争」と呼ばなければならなくなった。その結果、どうなったか:
この変更は、宗教的・超国家主義的教化の排除を目的としたSCAPの広範にわたる命令の一環として一九四五年一二月半ばに導入されたが、これは語義的帝国主義の行為に等しいものであり、ひいては予期せぬ結果も生んだ。「大東亜戦争」は、そこに侵略的排外性はあるものの、あの戦争の中心を中国と東南アジアにはっきりと据えていた。ところが新しい名称は、戦争の重心をあきらかに太平洋に移し、日本とアメリカ合衆国とのあいだの紛争を第一義的にした。この変更には陰謀の要素はまったくなく、征服者の反動的自民族中心主義の反映でしかなかったが、結果として、日本と戦ったアジアを、この占領における多少なりとも意味ある役割から基本的に閉めだし、先の戦争を特定するための用語から排除してしまったのである。このような不得要領な呼称変更は、日本人に戦争の罪を自覚させるどころか、自分たちがアジアの隣人たちに何をしたかを忘れさせるだけであった。(p.217-8)
つまりは、アメリカの帝国主義的エゴと、日本の戦争に責任ある関係者(そして多くの日本国民)にとって、この名称変更は利害の一致を生み出していたわけである。まさに、戦争責任をアジアの人民に対して取りたくない連中には、渡りに船だったのだ。
この無責任と無自覚は、東京大学、そしてその総長である南原繁も同じだった。一九四六年三月、戦没した東京大学の学生と職員のための慰霊祭が行われ、そこで南原が総長として述べた追討の辞の全文が、「戦没学徒に告ぐ」と題されて『文藝春秋』に掲載されている。
この中で、国民的罪悪に対する贖罪の犠牲者と戦没した学徒を呼んだ。正義に負けたのではなく、「理性の審判」に負けたのだというのだ。
南原は、「日本による侵略の犠牲になった者たちについて語らなかったし、アジアのほかの民族にもいっさい言及しなかった。今こうして糾弾している軍国主義、超国家主義の推進にこの大学が積極的に加担していたことについても立入らなかった」(p.319)
南原(に限らないが)の「転向の基盤にあったのは、彼が語りかけ悼んだ、真実を追究した学徒ともども、日本の指導者たちに欺き導かれたのだ、という確信だった」(p.320)のである。なんという、強弁だろう。なんという、ご都合主義なのだろう。これが日本の最高学府の総長の姿勢なのだ。
しかし、これが大方の日本国民の姿勢だったのだ。
悪いのは一部の軍国主義者だったとしておけば、気が楽だというのは、分かりすぎるほど分かる。けれど、この偽善と欺瞞の故に、若い頃の小生は、日本人への、あるいは日本への尊敬を根底的になくしてしまった。こんな無責任な民族をどうして尊敬できるはずがあろうか、中学から高校に掛けての小生は、絶望したのである。
まわりの人の良さそうなおじちゃんたち大人の顔や表情や仕草。それが戦地では、まるで違う顔を見せる。旅の恥は掻き捨てという日本的お気楽さの究極の姿。
今、映画『鬼が来た!』という映画が公開中であるが、小生は、町の書店で買った「太平洋戦争」中の日本軍の所業に、愕然と来たものだった。
人間不信にも陥ったりした。誰を信じればいいのか、分からなくなった。普段の顔からは想像できない鬼の形相を、一旦、箍が外れれば弱い立場の相手に見せて恥じない。しかも、全く、悪いとも思っていないようだし、それどころか開き直ってさえ、いる。
どうしてそこまで厚顔無恥でいられるのか。
『鬼が来た!』: http://www.gaga.ne.jp/onigakita/(削除)
『中国帰還者連絡会』
さて、では、自分も一皮向けば、そんな情ない人間に過ぎないのではないか…。
治安維持法下の日本で、自分が一人の人間として否を主張できるか、貫けるか。自分には、そんな勇気などとてもありそうにない。
では、心ならずも戦地、特に中国などへ赴いて、上官にあいつ等を殺せと命令されて、さて見ると、老人だったり、幼児だったり、女性だったりして、さて、命令に背いて殺さずにいられるか。若い女性を弄ぶ上官連中に諌めの一言でも発することができたか。ありえそうない。それどころか、命令をいい事に、真っ先に女を犯しかねない。我慢など、できようはずがない。強姦を大っぴらに敢行できるなんて、めったにあるチャンスじゃないのだ…。
なんだ、俺なんて、碌でもない奴じゃないか。偉そうにいえるのは、生ぬるい環境にいるから、奇麗事で済ませるに過ぎないんじゃないか…。
小生が哲学的関心を持つに至った背景の一つではあった。
若気の至りだったのだろうか。早計に過ぎたのだろうか。
しかし、悲しいけれど、馬齢を重ねた今、改めて冷静に反省しても、その判断に間違いはなかったと思うしかないのではないか。
従軍慰安婦問題にしても、日本国籍のない原爆の被爆者にしても、日本の姿勢(含めて自分の弱さを思うと尚更)を見ると、悲しい、ひたすら悲しくなるのである。日の丸の旗を、無邪気には、掲げることはできないのだ。ホントは、掲げたい気持ちがあるのだけれど。
(02/05/01)
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