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2010/03/27

『敗北を抱きしめて』雑感(7)

 日本国憲法がアメリカ当局の強い意志によって成立した面があることは、否めないだろう。当初は、日本の政治家達も、明治憲法の手直しで乗り切れるという目論見があったことは、確かだとしても。

 かの天皇機関説の主張で迫害された美濃部達吉、降伏前の日本で「自由主義」憲法の理論家としてもっとも有名だった美濃部にしても、憲法改正論争に加わる機会を与えられた際、憲法の改正には消極的な所見を発表した。
「明治憲法の改正を急ぐ必要はない。どんなことがあっても、国が外国の占領下に置かれている時期に、憲法改正を行うことは不適切である、と。近年の諸問題が生じたのは、明治憲法の欠陥によるものではなく、憲法の真意が曲解されたことによるというのが、美濃部の考えであった。(美濃部は、明治憲法下の天皇の地位を問題視することはなかった。西洋の憲法でも「神聖な」とか「不可侵の」君主という言葉を使っていると指摘した)」(p.122)

 それでもアメリカ当局の新憲法制定の意志が断固たるものと分かり、やがて日本の当局も、日本の意志を加味するよう戦略を立てたわけである。

 中にはアメリカも意図していないほどの変更を日本自らが決定して行ったものもある。社会党の華族制の廃止の動議の可決や、「ワイマール憲法や一九三六年のソビエト憲法の影響もあって、社会党はまた、すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を持つとした条項や、すべての国民は労働の権利と義務を負うという条項を、労働条件の法による規制とともに導入することに成功した」のである。(p.177)

 あるいは「全ての国民に対し、法律によってその能力に応じて平等な教育を受ける権利を保証し、その後の法律で、いわゆる六三制という九年間の義務教育制度を確立する」に至ったことも特筆すべきだろう。
 また、公式文書に使われる言語も、文語体から口語体に変わった。これは、上記と併せ、草の根的な運動の成果でもあろう。

 一方、反動的な面も見逃せない。「政府や国会は、在留外国人法に基づいて外国人にも平等な保護を提供するという条項の廃止に成功し、GHQの当初の意図を掘り崩した」(p.178)
 これは今に至るも日本の排外的姿勢の象徴とも言える。
 この項に関連して、4月29日付け朝日新聞朝刊に興味深い囲み記事が載っていた。同新聞より引用させていただく:[パリ28日=大野博人]:

 フランスの極右「国民戦線」の大統領候補、ルペン氏がこのほど記者会見で、「日本とスイスの国籍法は完全にわれわれの考えと一致する。われわれが人種的な偏見を持っていると指摘されるのはおかしい」と述べた。
 フランスの国籍法だと、父母が外国人でもフランス生まれで11歳から18歳までの間に5年以上居住すれば、ほぼ自動的に国籍を得られる。二重国籍も禁じていない。これに対して、日本やスイスの国籍法は外国人の国籍取得の基準がずっと厳しく、二重国籍も認めていない。
「治安の悪化は移民が主な原因だ」とするルペン氏は、二重国籍を禁じ、仏語の能力などについて審査を課す新しい国籍法の制定を訴えている。

 フランス国内においても、EUにおていも、人種的な偏見を持つとして指弾されている極右の政党の党首が、見本にしたくなるほどに、日本は一貫して排外的であることを、これほど如実に物語るものはないのではないか。

 過去、幾度も述べてきたように、日本の構造改革の根本は、政官業(そして大マスコミ)の癒着の構造に止まるものではない。むしろ、外国人排斥に象徴される排他性の克服にあるのだ。難民の受け入れに(先進国の中で)日本ほど消極的な国もない。本当に日本が国際貢献するつもりなら、有事法制を唐突に成立させることに汲々とするのではなく、外国に開かれた国になることが先決なのである。その覚悟もないくせに、日本国内は無傷なままに(難民を受け入れることなく)外国に軍隊を派遣して、それで国際貢献だと威張るのは、筋違いなのだ。

 日本の歴史をほんの少し顧みるだけでも、オホーツクの文化圏、日本海の文化交流、九州を中心とした朝鮮や中国との交流、そして北海道から遥か沖縄を越え、東南アジアとの交流など、相当に開かれた国だったことは明らかではないか。

 また、そうした交流を通じて、ロシアから北方民族、朝鮮人、中国人、東南アジアの人々、さらにはインド(あるいは西南アジア)の人々との関わりもあったことが知られる。それは単に文化や技術、政治的関わりに止まるものではなく、異種の民族との血の交流もあったわけである。
 昨年末、誕生日を前にした記者会見の席で、現天皇が " 日韓共催のワールドカップとの関連で、人的・文化的な日韓の交流を語る中、天皇は「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語った " ことは記憶に新しい。

 以下で、『天皇会見の中での韓国に関する発言の全文』を読める:
 http://www.chaeil.net/HTML/Stories/2002/01/05/10101663692.html(削除)

 日本は、そうした幅広い民族的的交流と混血との中で活力を得てきたのである。特に有事法制とかで勇ましい発言をされている向きは、本当に構造改革の覚悟があるなら、まず、国を開く覚悟があるかと問いたい。自らの国は鎖国です。難民は海外で援助・支援します、では、姿勢が疑われるのである。

 さて、余談が過ぎた。

 新憲法の制定で、反動的な面も目立ったと述べた。それは外国人の排斥の姿勢に見られるだけでない。アメリカ側は、「すべての個人 all persons」が法の前に平等であることを認めさせようと意図していた。「GHQ草案の中には人種や国籍による差別を明白に禁止する文言が含まれていた」のである。
 しかし、日本の当局は、訳語として「人民」という言葉を徹底して排除した(今も自民党のお歴々は「人民」という言葉や概念には神経質に忌避反応を示される。NGO法案の国会審議の時の騒ぎを思い起こしてほしい)。

 つまり、日本の保守派が「国民」という言葉を使ったのは、「人民主義の意味合いを弱めるためだけでなく、国家が保証する権利を日本国籍を持つ人々だけに制限するためでもあった」結果として「実は政府は、台湾人やとりわけ朝鮮人を含めた何十万という旧植民地出身の在日外国人に、平等な市民権を与えないようにすることに成功したのである」(p.179)
 その後の、「国籍に関する差別的な法案の基礎となったのである」(p.179)

                         (02/04/29

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