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2010/02/14

マイルス・デイヴィスの絵画へ(前篇)

[本稿は、「マイルス・デイヴィスの絵画へ(序)」の続きです。]

「マイルス・デイヴィスは、常に新しいジャズを創造し、同時に多くのミュージシャンを育てた、まさに“ワン・アンド・オンリー”の存在であ」り、「パーカー、コルトレーン、ハンコック、ジミ・ヘンドリックス、マイケル・ジャクソンら、21人から迫る」ことで、「「帝王」の真実」」を浮かび上がらせようという本。

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← 小川隆夫/平野啓一郎【著】『マイルス・デイヴィスとは誰か―「ジャズの帝王」を巡る21人』(平凡社新書 (2007/09/10 出版)) (画像は、「小川隆夫のJAZZ blog 『 Keep Swingin' 』 2007-08-29 9月の新刊(その2)~『マイルス・デイヴィスとは誰か』」より)

 マイルス・デイヴィス像を当人にフォーカスするのではなく、外堀から埋めていくことで、自然にマイルス・デイヴィス像を掘り出していこう、削りだしていこう、というわけである。
 ジャズにもロックにも(クラシックにも)疎い小生だから、読み話、紹介されるエピソードの数々はひたすら興味津々だった。

 本書を手にしたのは、筆者の小川隆夫もだが、もう一人が芥川賞作家の平野啓一郎だったこと。
 平野啓一郎はジャズにも通暁しているのかと、やや驚きの念で、ある意味、好奇心もあって手にした。読もうとは思わなかったのだが、パラパラ捲ってみると、案外に面白そう、という直感。
 平野啓一郎の名を借りて、注目度を高めよう、なんてわけじゃなく、彼も音楽手法を含めきちんと評論している。
 とはいっても、作家らしい叙述が目立つのも事実。

 以下、必ずしも典型的というわけではなくが、平野啓一郎節(ぶし)が楽しめる部分を抜粋して紹介する。
 転記するのは、トニー・ウィリアムス(一九四五~九七)という名の天才ドラム奏者の項から。
 彼はマイルスの音楽に新風を吹き込んだとされ、のち、フュージョン・シーンで活躍したりする音楽家である。
 

 トニーの死因が心臓発作だったという事実は、どこか、一九世紀のロマン派の画家ジェリコーが、落馬事故が元で死んだという話を思い起こさせるところがある。
 ジェリコーは、颯爽と大地を駆けてゆく生き生きとした馬の絵を数多く残しており、自らも乗馬を好んだが、落馬に寄る脊髄損傷は、彼を、シーンに衝撃を与えたまったく斬新なその創作活動と同時に生そのものからも突き落としてしまった。そして、ドラムという楽器の歴史上、間違いなく最も闊達なプレーヤーだったトニーもまた、自らの内部で絶えず鼓動し続けていた心拍の停止によって、その生の終了を余儀なくされることとなる。
 ジェリコーが、当時の新古典派主流の絵画の流れを決定的に変更して、ピカソのようなおよそ無縁そうな遠い未来の画家の登場までをもある意味で準備したのは、絵画史における身体性の導入である。確かに、ダヴィッドに代表される先行世代の画家たちは、ギリシア彫刻のように美しい人間の身体を描いたが、それは常に、スタティックな構図に静物画のように雁字搦めにされており、遠い彼方のイデアのようというよりは、どこか剥製めいて生気がなく、遂に現実の身体とは無縁の印象を与えるものだった。西洋絵画に描かれる人間の体は、グロを経てジェリコーに至って、ようやく遅ればせながら受肉に成功したのである。
 ジェリコーの描く身体は、決して理想化され、鑽仰(さんごう)されることなく、さりとて遠くから眺めやられているものでもなかった。彼が意外なほど、裸体を描いていないことには、十分に注意されるべきである。その肉体は、旧体制(アンシャン・レジーム)崩壊後の社会を生きた画家自身と同じように活発に運動し、自在に駆使された。そして、馬に乗って駆けるその画中の人物たちを見て、人は初めて画中の人間の心拍を自らの胸中に感じ、その昂進に全身を震わせたのである。
 西洋音楽の歴史におけるリズムの強調は、伝統的なワルツに加え、ジェリコーによりやや遅れて、ショパンが、ポロネーズやマズルカといった大地を軽快に踏むポーランド舞踏のステップを大胆に導入した頃から一気に活発化したことから見て取れるように、身体性の表現と不可分の関係にあった。このことは、たとえば、日本の能のような鑑賞型の芸能においても、また阿波踊りのような参加型の祭りにおいても、拍子が極めて重要な意味を持っていることを考えれば、容易に理解されよう。
 人間は、持続するビートというイメージを、容易に心拍のメタファーとして理解し、また体感する。人がこの世に生を享けて、最初に経験するポリリズムは、子宮の中で感じる母胎の心拍と、自らが開始する小動物めいた忙しない心拍との絶え間ない共振である。出産とともに個体として自立し、一分間に六十回強のモノリズミックな心拍を持続することとなる人間は、生涯の間に様々な人間と接し、喜怒哀楽によって互いの心拍を速めたり、落ち着かせたりしながら、やがてはその停止とともに死を迎える。身体的な昂進は、常にその心拍のテンポとともにある。若年の肉体的な充実と嗜好する音楽のビートの強調との間には、見やすい相関関係があるだろう。 (p.83-5)

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