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2009/12/13

スピーロ著『ケプラー予想  四百年の難問が解けるまで』を読む

 ジョージ・G・スピーロ/著『ケプラー予想  四百年の難問が解けるまで』(青木薫/訳 新潮社)を読了した。
 数学界では、近年、フェルマー予想を含め、大きな話題があった。
 このケプラー予想も、いろいろな意味で話題になった。

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← ジョージ・G・スピーロ/著『ケプラー予想  四百年の難問が解けるまで』(青木薫/訳 新潮社) 「四百年にわたる幾多の天才、無名人たちの生涯を賭けた挑戦を描く、感動の数学ノンフィクション」といった本。


 四百年の難問がついに解かれたという意味で…よりも、コンピューターを使った力技の解決ということで、従前のスマートな解き方を良しとする向きには、随分と不評でもあった。
 かの「イギリスの数学者イアン・スチュアートは、「ワイルズによるフェルマー予想の証明がトルストイの『戦争と平和』なら、ヘールズによるケプラー予想の証明は電話帳のようなもの」だと喩えていたとか。

 まずは、ケプラー予想とはどんなものかから説明しておくべきだろう(関心のある方には常識に属するのだろうが)。

ジョージ・G・スピーロ『ケプラー予想―四百年の難問が解けるまで―』」なる頁で、本書の訳者である青木 薫さんが説明されているので、それを参照させてもらう:

「ケプラー予想」というのは、一九九五年に「フェルマーの最終定理」が解決された後、その後継者とも言われた数学の難問である。フェルマーの最終定理の後継者であるためには、単に難問であるだけでは資格が足りない。一見すると簡単そうなのに、軽い気持ちで手を出すと深みにはまって地獄を見る、という性質を備えていなければならない。「ケプラー予想」はまさにそんな問題だった。
 どんなものかを説明するのは簡単で、数式すら使わずにすむ。すなわち、「大きさの等しい球をもっとも効率よく三次元空間に詰め込む方法は、果物屋の店先にオレンジが積まれるときの方法と同じである」というのがそれである。誰しも、「きっと正しいに違いない」と思いそうな予想だ。ところが、これを数学的にきちんと証明するために、なんと四百年もの時間がかかってしまったのだ。

 数学には(も)ズブの素人である小生だが、直観からすると、「大きさの等しい球をもっとも効率よく三次元空間に詰め込む方法は、果物屋の店先にオレンジが積まれるときの方法と同じである」ってのは、当たり前すぎるように思える。
「ところが、これを数学的にきちんと証明するために、なんと四百年もの時間がかかってしまったのだ」。
 数学の場合、尤もらしいとか、正しいに違いないとか、常識じゃんってのは通用しない。
 どんなに正しいに違いないと常識が訴えようと、厳密に証明されない限り、あくまで仮説に過ぎず、予想に留まる。
 
 しかも、このケプラー予想は、結果的に予想通りだったことが証明された…、直観が正しかったことを証明した…に過ぎず、その意味で、成果は乏しいとも言えなくもない。
 ここのところ毎日のように話題になった事業仕分けで、この予想を証明するため、予算を計上しようとしても、そんなの何の意味があるの、応えは最初から分かりきっているじゃないのってことで、頭ごなしに却下されそう。

 けれど、数多くの俊英や天才が証明を試みてきたのだ。
 そのドラマや、証明に至るエピソードの数々がとにかく面白い。

 ところで、そもそも何ゆえに「大きさの等しい球をもっとも効率よく三次元空間に詰め込む方法」が真っ向から問われるようになったのか。
 少なくとも果物屋さんからの問いではない。彼らには(彼らならずとも)、効率的な積み方なんて経験からして当たり前過ぎて、問い掛けるなど論外だったろう。

 実を言うと、本書に書いてあることだが、「ケプラー予想」は、「船倉に積まれた砲弾の数を知りたいという、きわめて現実的な要求をひとつの発端として生まれた、という:

「ケプラー予想」という名前に反して、物語の第一幕に登場するのは、意外にもプラハのケプラーではなく、イギリスのトマス・ハリオットだ。ハリオットの名前を初めて聞くという読者も多いだろうが、彼はエリザベス一世の第一の寵臣サー・ウォルター・ローリーの片腕で、近年再評価の必要性が叫ばれている数学者・科学者である。ときは大航海時代のイギリス。ハリオットの親しい友人であり、エリザベス一世の占星術師でもあった、かの有名な「魔術師」ジョン・ディーが、数学こそは神の栄光、国益増進、そして個人の栄達の鍵であると説いたのはまさにこの時代だ。海岸沿いに船を進めれば事足りた地中海から大洋に乗り出していくためには、数学に裏打ちされた新しい航海術が不可欠だった。航海術ばかりではない。ありとあらゆる分野で、新しいテクノロジーを手にした世俗の技術者や知識人たちが、知の新世界を切り開いていった。第三章に登場するアルブレヒト・デューラーもまた、美術史上に燦然と輝く芸術家であるとともに、印刷術という画期的新技術の先頭を切る技術者・数学者だった。二次元、三次元の球充填問題は数学の内的要請からというよりも、このような時代背景のもとで生まれたのであり、抽象的な問題と「現実世界」との関わりについても考えさせられるものがある。
(「訳者あとがき」より。「ジョージ・G・スピーロ『ケプラー予想―四百年の難問が解けるまで―』」なる頁も参照。)

 本書が刊行されて4年。
 こんな面白い本をどうして今まで見過ごしてきたのだろう、我ながら不思議である。


関連拙稿:
レーダーマンからエミー・ネーターへ
思い出は淡き夢かと雪の降る

                            (09/12/13 作)

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