久世光彦・著『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』の周辺
久世光彦・著の『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)を読んだ。
読んだ、というより、口ずさんだ、と言ったほうがいいかもしれない。
← 久世光彦・著『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)
数多くの歌が収録されているのだが、その大半を口ずさめるというのは、ちょっと驚き。
多くが大衆的な歌であり、その時代その時代においてヒットした曲だから、当たり前…?
とも言いきれないはずで、文部唱歌や童謡なら教科書に載っていて、古い曲でも学校で歌ったり、あるいはテレビやラジオから流れるのを耳にすることも折々はあるだろうが、本書で紹介されているのは必ずしもそんな曲ばかりではない。
思えば、昭和の終わり近く、バブル経済が弾ける前後くらいまでは、歌謡番組がテレビでの茶の間のゴールデンタイムのメインのメニューで、そうして映され歌われる歌は、老若男女を問わず、茶の間で見聞きしていた。
つまりは、一家団欒がまだ死語ではなかった時代、よほど独自のチャンネルを持たない限り、世に流れる曲は、誰でもが聞くし知っているし、歌ったりもする(音痴の小生でも、少なくともハミングくらいはする)。
…いや、口ずさむどころではなく、ある年代までは我が口からメロディーが絶えることがなかった。多くはその当時のヒット曲だが、中学や高校の頃からテレビの歌番組などで見聞きした歌が忘れられない思い出や感傷を伴って口を突いて出てくるのだ。
内気な人間なので、周りに人の気配を感じると、即座に歌詞もメロディも消え去ってしまう、が、人が通り過ぎると、また歌が湧き出てくる。
小生が歌うことがなくなったのは、ある切っ掛けがあってのことで、それまでは多くは歌謡曲かオールデイズのロックやポップスを歌わない時はないくらいだった(「ガス中毒死未遂事件」参照)。
曲(歌)というものが、専門家の作詞家と作曲家とが作り、専門の歌手が歌うものだった。
今も、そうであることに変わりはない?
そうかもしれないが、シンガーソングライターが珍しい時代でもあったし、それぞれのプロが集まって曲を作るもの、というイメージ(思い込みなのかもしれない)が小生の中では強かった。
ヒットする曲は誰でもが知っているし歌える。
今はまるで事情が違う。
どれほどCDの売り上げが多かろうが、ダウンロードされる回数が多かろうが、知っているのは、世代的に限定されていたりして、現に今ヒットしていても、ちょっとターゲットがずれた層や年代の者にはまるで縁遠かったりする。
それぞれがタコツボの中にいるような。
今だって歌番組はゴールデンタイムに限らず、あるのだが、小生は全く見ないし聞かない。
視聴しても、まるで馴染みのない曲ばかり。
歌のヒットの回転が速すぎるし、あまりに多くの新人が出てきたりして、もうついていけない。
要は、自分が年を食って、置いてけ堀を食らっているに過ぎないのだろう。
流行の曲は、一家の誰もが、隣近所の誰もが知っている、そんな常識などは、かのバブル経済の破綻と共に、つまりは中流幻想の崩壊と共に、潰え去ったのだろう。
昭和の末期までは、当然、その都度のヒット曲がテレビやラジオで架かると同時に、懐メロ番組がしばしばあって、昭和の初期から戦後の間もない時期の流行歌も存分に視聴することができた。
まあ、そんな無駄話は別にして、本書は、「末期(まつご)の刻(とき)に1曲だけ聴くことができたら、どんな歌を選ぶか――。故・久世光彦が14年間にわたって雑誌「諸君!」に連載した123篇のエッセイから52篇を選んだ〈決定版〉。小林亜星、小泉今日子、久世朋子の3氏による語り下し座談会「私たちの選んだマイ・ラスト・ソング」を収録。懐かしい昭和の名曲が、珠玉の名文でよみがえる」といった本である。
しかし、本書を選んだのは、懐かしい歌の数々を楽しみたいという思いもあったが、それ以上に、著者の久世光彦が我が富山に縁の深い人物であり、我が高校の先輩でもあり、彼の小説や随筆もだが、久世光彦自身がドラマで活躍するだけではなく、作詞家としてヒット曲の誕生に関わってきたから、でもある。
尤も、彼が母校の先輩であるとか、香西香のヒット曲などの作詞家としても活躍していた、なんてことを知ったのはほんの数年前のことなのだが。
それにしても、久世光彦は、本書でもそうだが、よく泣く方のようだ。
しばしば歌を歌っては、聞いては、作詞された詞を読んでは涙を流すと書く。
小生だって、泣きたくなる気分にはなるが、恥ずかしくて、歌を歌って、聞いて、思い出が脳裏を過ぎって泣きたくなる、あるいはホントに泣いてしまうなんて、書けない。
その前に、涙を堪えてしまう。
少なくとも、人前で、文章で臆面もなく、泣くなんて言えないし、書けない。
(但し、内緒だが、どうにも堪えきれない時、泣き寝入りの夜を過ごすことはある…。)
その点、久世光彦は本書の中でも何度も泣くと書いている。
人一倍、感激家。
いや、むしろ、人一倍、いろんな体験を重ねてきたのだろうし、多感な青春を過ごしたのだろうし、誰よりも想像力と、人の気持ちに共感する心が豊かなのだろう。
そして、自分が感激したら、素直に感激したことをストレートに表現できる人なのだろう。
そのことこそが、勇気あるし尊敬すべきことなのかもしれない。
忙しくて、本書をゆっくりじっくり堪能できたと言い切れないことは残念だが(返却期限が来てしまった!)、それでも数々の歌謡曲や唱歌や童謡などを、特に作詞された詞に焦点を合わせた形でだが、楽しめたことは有意義だった。
(09/12/22 作)
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