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2009/11/05

『快楽の本棚』未満

 今日(11月2日)、津島 佑子【著】の『快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内』(中央公論新社 (2003/01/25 出版))を読んだ。
 図書館で借りる本を物色していたら、「芸術の秋」特集コーナーがあって、二十冊ほどの本が並べられていた。
 その中から二冊を選んだうちの一冊である。

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← 津島 佑子【著】『快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内』(中央公論新社 (2003/01/25 出版))

 多分だが、小説家である津島佑子の肝心の作品のほうは、一つも読んでいないはず。
 まあ、彼女の世界への糸口になれば、という思いもあって手に取った。
(この拙稿を書き上げてから思い出したのだが、学生時代、女性作家の作品を読み漁った時期があって、その際、津島佑子の作品も読んでいた! (09/11/05 追記))


 この本についての書評や感想文は書くかどうか分からないが、ちょっと気になった点があったので、とりあえずメモっておく。
 といって、本書の内容に関わることで異論や疑問があったという、偉そうなことではない。

 本書の「2」章は、「おばけの話 小学時代①」と題されている。

 その冒頭に、以下の記述がある:

 学校の図書室という場所は、保健室とともに、いつの時代も、子どもたちにとっては特別な意味を持ちつづける。両方に共通するものは、静寂と「よぶんな時間」。私はその両方の常連だった。

 以下、保健室での思いでに続き、小学校の図書室での思い出が綴られ、本題へと話が繋がっていく。
 もう、この時点で小生は本物の作家と、創作も含め書くことが好きなだけの人間との違いを痛感させられた。
 以前にも、何かのついでに図書館は小生には縁遠い場所、敷居の高い場所だったことを書いたような気がする(あるいは、コメント欄でだったかもしれない)。
 図書館がどうとか言う前に、そもそも小生は本好きですらなかった。
 漫画の本が本だというのなら、また、絵本も立派な本だという意味では、小生は立派な本好きだったと言えなくもない。
 しかし、本を活字に満ちたものと限定すると、やや話が違う。
 小学生の頃からだって本は少々は読んでいたし、中学生になってからは徐々に活字オンリーの本も手にとるようになっていた。

 でも、小生は本の世界にのめりこむことはあまりなかった。
 というより、本を読むことに後ろめたさの感覚を感じていた。

 別に書を捨てよ、街に出よ、を実践していたわけではないが、ただ、ついつい漫画の本を含めどんな本を読む際にも、本の世界の外にこそホントの世界がある、手触りのある現実がある、自分は友だちも少ない(皆無?)し、外で誰かと会ったり、何かをしたりする機会を持てないから、現実の代償(代替え品)として、暇潰しに本に逃げ込んでいるという感覚に常に付き纏われていたのである。

 本を読むのは後ろめたい行為。現実逃避。何処まで行っても現実の似て非なる代替え品。現実に接する勇気も能もないからこその後ろ向きの人間の自慰行為、云々というわけである。

 というわけだから、小学生の終わり頃から漫画の本以外の本を買うために書店に立ち寄るようなこともあったが、それは友達のない人間だから、他にちゃんとした(?)遊びを為せない奴だからこんなところに逃げ込んでしまっている…、だから、何か目当ての本を入手したらそそくさと書店を去った。
 そうした及び腰な本との付き合い方はずっと続いていた。
 だから学校の図書室に近寄るなんて思いも寄らなかった。
 万が一にも同級生に図書室にいる自分を見られたくなかった。
 図書室にいる人間なんて、別世界の奴、浮世場慣れした奴、現実逃避を決め込んだ奴、そんな奴らの仲間と思われるのが怖いくらいの気持ちだった。

 小生の記憶をどう辿ってみても、小学校に図書室があったかどうか記憶にない。
 そう、図書室なんて存在自体、記憶から消されている。
 小学校どころか、中学校だって図書室があったのかどうか覚えていない(ないはずはないのだが)。
 中学校どころか、高校でさえ、小生には図書室は縁遠い存在だった。

 さすがに高校生の頃には、学校に図書室があったことは認識していたが、何度かは部屋の前を通りかかったような気もするが、図書室の中に入ったことがあるかどうか、記憶に定かではない(誰かに誘われて入ったことがあったかどうか…)。
(郷里の町に図書館があるのかどうかも、帰郷するつい昨年まで認識していなかったはず!)

 小生が図書館通いを始めたのは、ようやく大学生になってからのことだった。
 一応は哲学を志していた人間の端くれだし、学問のせめて匂いだけでも嗅ぎたくて、それこそ紙魚の匂いの鼻に突く(但し建物はコンクリート造りの新しいもの)図書館の奥の書庫を歩き回ったりした。
 埃に塗れた蔵書がびっしりと書架を埋め尽くしていた。
 このどれもが誰かしら、手に取ったことがある、読まれたことがある、その前に誰かがこの書を書いたのだ…。
 不思議を超えて不可思議な世界の間際に立ち尽くしていた。

 …まあ、そんなわけで、津島 佑子【著】の『快楽の本棚』を読んでいて、さすが作家の読書遍歴は一味違うな、源氏物語などにしても、理解の仕方が違うな、などと思ったりする、はるか以前に、もう、小学生の時点で(あるいは入学する前から…生まれ自体が?)、小生とはまるで違う世界を生きてきたんだと、溜息混じりの読書となったのである。

                            (09/11/02 作)

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