カネッティ『眩暈』に眩暈!
エリアス・カネッティ著の『眩暈(めまい)』(池内紀訳 法政大学出版局)を読んだ。
二週間以上を費やして。
読んだ、なんて言えるのかどうか…。
目を通しただけ、というのも違う。
とにかく読了して、今は、偏屈さと狂気とで一杯の脳髄の中を這い回っただけ、という感があるばかりである。
← エリアス・カネッティ著『眩暈(めまい)』(池内紀訳 法政大学出版局)
ノーベル賞作家カネッティの長編小説と世上は紹介されるが、当然ながら本書を書いた当時は、無名の書き手に過ぎなかった。
実際、1905年生れの彼が本書を書き始めたのは、1929年に学位(ウィーン大学で化学)を取得した頃であり、書き上げたのは26歳の頃と言われている。
発表当時は、ほとんど、無視。あるいは罵倒の対象だった。
そりゃそうだ、こんな本が公表された当時に理解などされるはずがない。
およそ、理解が出来るのかどうか自体、小生には分からない。
「「群衆と権力」をテーマに錯綜する狂気と錯乱の風景を描き、解し難く浅薄な「現代」を深く烈しく抉り、トーマス・マンにその氾濫する想像力と構想筆致を驚嘆させた二十世紀ドイツ文学を代表する傑作」といった高い評価を得たのは、ずっと後年のことである。
「1981年にノーベル賞をとっていて、カフカ(Kafka)やブロッホ(Broch)やムージル(Musil)などと並び、20世紀初頭のドイツ語圏文学を代表する作家」とまで評価を獲得するまでになる。
小生が読んだのは、上掲の新装版だが、日本で最初に池内紀の手になる本書の訳本が出たのは1972年だという。
小生も、表題くらいは眺めたはずだが、ほんの数行も辿らないうちに、あっさり放棄したものと思う。
当時は、ドストエフスキーやカフカやプルーストには手が出ていたが、ブロッホやムージルには手が出なかった。ジョイスだって読んだのは、四十歳の頃のこと。
ストーリーなどは、たとえば、「ローマのイクラ カネッティ『眩暈』 Canetti Die Blendung」にあるとおりである。
というより、実のところ、この頁の説明を読んで初めて全体像が理解できたような。
まあ、「万巻の書に埋もれた一東洋学者が非人間的な群衆世界の渦に巻き込まれ、発狂して自己と書庫とを破壊するにいたる異常の物語」という以上に説明ができるものかどうか。
本書を読んで、脳裏に(連想的に、しかし全く違う世界と分かりつつ)思い浮かばれてならなかったのは、(カフカの『城』などもだが)、ダニエル・パウル・シュレーバー(1842-1911)の書いた、『シュレーバー回想録』だった。
この本も読んだとき、衝撃的だった(平凡社版で読んだか筑摩書房版だったか忘れたが)。
「妄想・幻覚・神秘体験(恍惚体験)を伴うパラノイア(偏執症)の症例」なのだが、確かに異常な世界が認識されているのだが、しかし、(本人的には)極めて明晰なる認識であって、その中においては認識と分析の上で高度な一貫性が保たれている。
もしかしたら透徹した、深い宗教的境地さえも、示される。
だけど、常人(というより凡人)の小生からは、幻覚・幻想・妄想としか思えない。
極めて閉鎖されたループをひたすら描くばかりのように見える。
メビウスの輪の一面をなぞって、本人としては道を踏み外してはいないつもりだが、他者から見ると、相手は(あるいは他人はみんな!)変てこに見えてならない。表を歩いているはずが、気が付くと裏面へ、そして、もっと怖いことに(メビウスの輪だと、堂々巡りだとしても、いつかは元に戻るのだが、裏の世界へ、他者たちとは交わることの決してありえない世界へ、行きっ放しになってしまう。
明晰なる認識も、疑いようのない(自分にとっての絶対的な)真実味も、一切が自らの正常性を保証しないという恐怖。
何を以て正常と思えばいいのか。
(「シュレーバー症例」については、例えば、「精神分析の歴史における“シュレーバー症例”と『シュレーバー回想録』」を参照願いたい。)
断っておくが、カネッティの『眩暈』がそんな世界を描いているということではない。
むしろ、カネッティの小説はもっと怖くもある。
シュレーバー症例が高度に知的な人間の、高く舞い上がりすぎた知性の悲劇だとすれば、カネッティの小説では、「優秀で名声もある東洋学者ペーター・キーン」といった知識人も(彼が確かに主人公ではあるのだが)、街中の凡人も(自分の中では自分の認識こそが絶対であるという意味で)徹底して同等(対等)の立場に立つ。
誰もが同じ地平に立っている、誰もが自分の色眼鏡でしか世界を見ることは叶わない(…なんて言うと、あまりに単純化し過ぎているが)というわけである。
こういった本を読むと、変な感想だが、小説は、どういうものかは分からないままだとしても、もっと徹底して自分の好きなように書けばいいと思わせてくれる。
その意味で、創作に悩むものとしては、妙に励まされたりしたのだった。
(09/10/11 作)
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