バシュラール『水と夢』の周辺
ガストン・バシュラール/著『水と夢 物質的想像力試論』(及川馥/訳 叢書・ウニベルシタス 898 法政大学出版局)を昨日、読了した。
→ ジョン・エヴァレット・ミレー 『オフィーリア』 (1851-52 テート・ギャラリー(ロンドン)蔵) (画像は、「ジョン・エヴァレット・ミレー - Wikipedia」より) 拙稿「ハムレットとスミレとオフィーリアと」参照。水とオフィーリアとの関連付けも本書でされている。
以前、読んだことがあるはずなのだが、印象が薄れている。
昨年末、刊行されて間もない本書を図書館の新刊本コーナーで見つけ、慌てて手に取り、借り出したものだった。
その前には、ずっと昔、三十年ほども過去のこと、学生時代か、卒業して間もないアルバイト生活時代だったか、『水と夢 副題 物質の想像力についての試論』(著者 ガストン・バシュラール 訳者 小浜俊郎、桜木泰行 国文社)版にて、読んだというより、眺めたかすかな記憶がある。
読んでも、さっぱり理解が及ばなかった、情けない記憶だけは残っている。
「水、土、風という自然の要素を手がかりに詩の現象学的解明を鋭く追求したバシュラール詩学の中で、水の言語と人間の直接的な詩的現実と夢想現実とのかかわりを多彩に論じつつ、われわれの肉体と魂とを有する全体的存在として「水」をとらえる本書は、いわゆるバシュラールの物質的想像力概念に関する重要な鍵になる書物である。バシュラール詩学解明に不可欠の書」とまで書かれているからには、読まずには居られない。
こんな他人様には大仰にも思える勢いで本書を手に取ったのも、それなりの動機がある。
← ガストン・バシュラール/著『水と夢 物質的想像力試論』(及川馥/訳 叢書・ウニベルシタス 898 法政大学出版局)
「西谷啓治と水の哲学と富高生時代の思い出」なるエッセイの中で、その動機の一端を語っている。
我が母校(高校)に哲学者の西谷啓治が講演のため来校され、講演の題名は忘れたが、テーマは「水の哲学」だった。
悲しいかな、講演の内容も、高校を卒業するまでには綺麗さっぱり忘れてしまった。
ただ、「世界の根源が水であるというタレスの哲学に引き付けながら氏の世界へ誘(いざな)ってくれたように記憶」しているだけである。
いずれにしろ、「氏の話は淡々としている中に深みがあって、知らず知らずのうちに小生は氏の世界に引き込まれていった。ほんの一瞬だが、電流のようなものが背中を走った」もので、「宇宙なり世界なり、あるいは自然なりは、その根源に至るまで考え抜き、統一的な原理で説明し抜こうとする姿勢は、あるいは、そうした意志を持って生きる人がいるということは当時の小生に非常に大きな影響を与えた」のだった。
脳髄に万物の根源を水とする世界のイメージが鮮明に描かれた。
→ 仕事を終え、帰宅の途上、朝焼け間近の東の空を撮ってみた。
この新訳版の書籍紹介でも、「生命の元素、“水”の詩学。かぎりなく流動と循環を繰り返し、海水にも淡水にも、泥にも乳にもなる水。この元素は人間を、ときに温かな母性の幸福へ、ときに冷たく孤独な死の危険へといざなう。詩句や神話に表現された水のイマージュへの「物質主義的」分析が、“新しい批評”の時代を予見させた記念碑的著作」とあって、読まずには居られなかったのである(引用文中の、「物質主義的」分析ってのが理解できないのだが)。
小生にはバシュラール理解など、到底、及ばないが、以前、以下のようなことを書いたことがある:
バシュラールには何か、形そのままに残したい守りたい至福の時空間=真理があるように感じられる。その至福の次元を実現させるものは詩に他ならないと彼は考えている。
その詩とは、単なるイメージ(我々が思う、ただのイメージに過ぎないという時のイメージ)ではなく、物質としての詩的イメージの世界なのだ。バシュラールの言葉を借りれば、詩的想像力、さらには物質的想像力によって実現される現実の時空なのである。
そう、バシュラールは、詩的空間を単なる言葉の上の蜃気楼とは思っていない。机や椅子や家や木々や石や焔と同じく、極めて人間的な想像空間に現出した物質の一つの様相なのである。
言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器であり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。
しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然としてある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。
詩の言葉は、誤解されやすい。イメージの空間で漂うだけの、非現実のものだと見なされやすいのである。言葉の創出する蜃気楼空間に須臾(しゅゆ)在る蜻蛉(かげろう)に過ぎないと、見なされやすいのである。
(中略)
バシュラールが家や貝殻や巣や片隅を偏愛するのも、あるいは小宇宙の中に潜む大宇宙を強調するのも、誰もが見過ごしがちな、誰もが忘れがちな時空間は、実はそこにある、かってあったし、けれど今はないものではなく、現に今もそこにあることを、ありつつあることを誰よりも知っているからに違いない。
(拙稿「バシュラール『空間の詩学』あるいは物質的想像力の魔」より)
← 冒頭の写真を遡ること、二十分ほど前の東の空。まだ、消え残る星が。
また、以下のようなことを書いたこともあるが、言うまでもなくバシュラールに引きずられ影響されての、我流の世界認識の呟きである(「蝋燭の焔」を「水の雫」に置き換えても、ほとんど意味は変わらないように思う!):
闇の中、懸命に蝋燭の焔を思い浮かべる。そう、魂に命を帯びさせるように。それとも、誰のものでもない、命のそこはかとない揺らめきを、せめて自分だけは見詰めてやりたい、看取ってやりたいという切なる願いだけが確かな思いなのだろうか。
きっと、魂を見詰め、見守る意志にこそ己の存在の自覚がありえるのかもしれない。風に揺れ、吹きかける息に身を捩り、心の闇の世界の数えるほどの光の微粒子を掻き集める。けれど、手にしたはずの光の粒は、握る手の平から零れ落ち、銀河宇宙の五線譜の水晶のオタマジャクシになって、輝いてくれる。星の煌きは溢れる涙の海に浮かぶ熱い切望の念。
蝋燭の焔もいつしか燃え尽きる。漆黒の闇に還る。僅かなばかりの名残の微熱も、闇の宇宙に拡散していく。それでも、きっと尽き果てた命の焔の余波は、望むと望まざるとに関わらず、姿を変えてでも生き続けるのだろう。一度、この世に生まれたものは決して消え去ることがない。あったものは、燃え尽きても、掻き消されても、踏み躙られても、押し潰されても、粉微塵に引き千切られても、輪廻し続ける。
輪廻とは、光の粒子自身には時間がないように、この世自身にも実は時間のないことの何よりの証明なのではなかろうか。だからこそ、来世では誰も彼もが再会すると信じられてきたのだろう。
(拙稿「蝋燭の焔に浮かぶもの(後篇)」より)
→ 今朝(21日)の「クレオメ(西洋風蝶草)」。
昨日、夜や昼の水辺の光景を写真に収めてみたのも、バシュラールの「水と夢」を意識してのことだったのである。
今の自分には、高校時代に感銘を受けた万物の根源を水と見ることから得られるイメージ世界を描くことなど、到底、叶わぬと思いつつ、「水面」を眺めていたのだった。
(09/09/21 作)
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