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2009/08/01

シェイクスピア著『テンペスト』の一節

 過日の雑文でシェイクスピアのテンペストからの有名な一節を掲げたこともあって、久しぶりにシェイクスピア作品を読んでみた。
 無論、縁もあって、読んだのは、「テンペストThe Tempest)」である。

07036

← シェイクスピア著『テンペスト』(小田島 雄志 訳 白水UブックスU36 シェイクスピア全集) 

 学生時代、英語の授業で一年間、シェイクスピア作品をじっくり読んだ。
 原文で本格的な作品を、しかも、戯曲を読むのは初めてで、最初は戸惑いもあったが、一年が終わる頃には、シェイクスピア作品を原文で読む楽しみに痺れていた。
 一年間の講義を堪能したと言って過言ではない。
 あと一年、違う作品での講義を受ける、そんな機会があったら、哲学科から英文科に転籍したかもしれない。
 戯曲としての楽しみもあるが、シェイクスピアの言葉遊びの自在さにひたすら感服した。

 言葉遊びとはいっても、特に下賎な階級の者、民衆の、遠慮会釈のない、時に辛辣なまでの語り口は、上品というか世間体や体面を保つことに汲々とする貴族や王族らの常識をあっさり、しかも、とんでもなくシビアーに相対化してしまう。
 天国と地獄は紙一重だということ、貴賎は裏返しなのだということを、科白もだが、言葉の巧みな使い方で、痛快なまでに露わにしてしまう。

 つまりは、天然自然現象の観察、鋭い人間観察眼(と表現力)があって初めて可能となる、言葉の演舞なのだ。


 小生が今回、読んだのは、小田島 雄志訳の『テンペスト』(白水社)である。
 行きつけの図書館に小田島 雄志訳によるシェイクスピア全集があるのは知っていたので、読むならこれでと決めていた。

 英文学の素養も、ましてシェイクスピアについては何の知識もないのに、僭越にも、小生には小田島 雄志の著書を扱った書評(?)がある。
小田島雄志著『駄ジャレの流儀』

 駄洒落好きの小生らしく、読んだのは、本格的な英文学の本ではなく、駄洒落についての本。
 これなら、小生だって手が出せるし、理解も出来ると思い昂ぶって読んだのだが、さすが本格派は違うと恐れ入った次第だった。

2683321

→ 小田島雄志著『駄ジャレの流儀』(講談社) 「駄ジャレは多種多様な笑い方を鍛え、感情生活を豊かにする」とか「シェイクスピアで知られる英文学者がまとめた本格的駄ジャレ全集」といった本なのに、品切重版未定だって!

「テンペスト」について、今更、何を言う能も小生にはない。
 以下のサイトに任せるのみである:
「テンペスト」(ホームページ:「シェイクスピアの森

 ここでは、以前も抜粋して示した、「テンペスト(The Tempest)」の有名な一節を、上掲書から再度、示すのみである:

もう余興は終わった。いま演じた役者たちは、
さきほども言ったように、みんな妖精であって、
大気のなかに、淡い大気のなかに、溶けていった。
だが、大地に礎(いしずえ)をもたぬいまの幻の世界と同様に、
雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も、
荘厳きわまりない大寺院も、巨大な地球そのものも、
そう、この地上に在るいっさいのものは、結局は
溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには
一片の浮雲も残しはしない。われわれ人間は
夢と同じもので織りなされている、はかない一生の
仕上げをするのは眠りなのだ。

 ちなみに、つい先日、本書と相前後して読了したジョン・D・バロウ著『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔【訳】 青土社)においても、この一節が掲げられていたことを銘記しておく。
 むしろ、この本がシェイクスピア熱を呼び覚ましてくれたといって過言ではないのだ。

                                (09/07/24 作)

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