『リチャード三世』を斜め読みする
『テンペスト(The Tempest)』に引き続き、小田島 雄志訳にてシェイクスピア著『リチャード三世(King Richard III)』(白水Uブックス)を読んだ。
← シェイクスピア著『リチャード三世(King Richard III)』(小田島 雄志訳 白水Uブックス)
「リチャード三世 (シェイクスピア) - Wikipedia」によると、「『リチャード三世』は、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア作の史劇。正式なタイトルは『リチャード三世の悲劇』」で、「リチャード三世は狡猾、残忍、豪胆な詭弁家であり、「彼の野望の犠牲となり親を失った子、夫を亡くした妻、子供に先立たれた親の嘆きから、不幸の底にある者でさえ他人の不幸がわからない密やかなエゴイズムが劇中に映し出されていく」というもの。
今以て人気のある作品で、日本でもしばしば演目として採り上げられる。
ドラマに仕立てやすいし、解釈や演じ方に演出家や役者の裁量の余地が大きいのだろう。
ドラマとしても面白くなりやすいだろうし、何と言っても主人公が極めて個性的だ(ある意味、この作品は、小生には、主人公に尽きるとも思える)。
ストーリーは、「リチャード三世 (シェイクスピア) - Wikipedia」によると、
薔薇戦争の最中にある15世紀イングランド。ヨーク家のエドワード四世は病の床にあった。王の弟であるグロスター公リチャードは、生まれながらの身体的障害をもバネにし、王位をものにしようと企む。巧みな話術と策略で政敵を次々と亡き者にし、その女性たちを籠絡して見事王位に就くリチャード。
だがその栄光もつかの間、ランカスター家のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)が兵を挙げたのを契機に次第に味方は離れていき、ついにはボズワースの戦いで討たれる。
ストーリーは、本稿には関係ないのだが、もう少し詳しくは、例えば、下記などを参照願いたい:
「シェイクスピアの『リチャード三世』各場面のあらすじ」
ストーリーはともかく、登場する人物が多く、記憶力の弱い小生、上掲書の最初に載せてある人物名一覧が助けになった(それでも、??が多かったが)。
人物群像も、特に戯曲の主人公のリチャード三世も、史実の上のリチャード三世像を生かしているようだ(実際には、もっと生臭い、血みどろなのか:「リチャード3世 (イングランド王) - Wikipedia」参照)。
しかし、当然ながら、悲劇『リチャード三世』では、人間像がカリカチュアやデフォルメというわけではないだろうが、かなり極端化されている。
「リチャード3世 (イングランド王) - Wikipedia」にもあるように、「リチャードはシェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として性格・容姿ともに稀代の奸物として描かれ、その人物像が後世に広く伝わった」のである。
、シェイクスピアがリチャード三世(となるべき人物)をどのように描いているか、というより、もっと重要なのは、芝居の中のリチャード三世が自らをどのような人物と自覚しているか、世間に評価されていると思っているか、を知る、貴重なモノローグが本訳書の冒頭、真っ先に示されている。
長いが、ある意味、小生には、この先のどんな悲劇的場面や愁嘆場などより本書の中で印象に残ったこともあり、グロスター公リチャード、のちにリチャード三世となり、非業の最期を遂げる、彼の芝居での冒頭のモノローグをできるかぎり抜粋し転記してみる(太字は小生の手になる):
われらをおおっていた不満の冬もようやく去り、
ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がきた。
わが一族の上に不機嫌な顔を見せていた暗雲も、
いまは大海の底深く飲みこまれたか影さえない。
われらの頭上には勝利の花輪が誇らしげに飾られ、
傷だらけの武具は記念の品として壁に掛けられている。
けたたましい軍鼓の響きはさんざめく宴(うたげ)の声に、
重苦しい進軍の足どりは軽やかな踊りにと変わった。
戦(いくさ)の神も、そのきびしい顔をなごやかにほころばせ、
つい昨日までは武装した軍馬にうちまたがって
恐れおののく敵兵どもの心胆を寒からしめていたのに、
いまはどうだ、ご婦人の部屋に入りびたって、
みだらなリュートの音に合わせて踊り騒いでいる。
だがおれは、生まれながら色恋遊びには向いておらず、
鏡を見てうっとりするようなできぐあいでもない。
このおれは、生まれながらひねくれて、気どって歩く
浮気な美人の前をもったいつけて通る柄でもない。
このおれは、生まれながら五体の美しい均整を奪われ、
ペテン師の自然にだまされて寸詰まりのからだにされ、
醜くゆがみ、できそこないのまま、未熟児として、
生き生きと活動するこの世に送り出されたのだ。
このおれが、不格好にびっこを引き引き
そばを通るのを見かければ、犬も吠えかかる。
そういうおれだ、のどかな笛の音に酔いしれる
この頼りない平和な時世に、どんな楽しみがある。
日向ぼっこをしながら、おのれの影法師相手に
その不様な姿を即興の歌にして口ずさむしかあるまい。
おれは色男となって、美辞麗句がもてはやされる
この世のなかを楽しく泳ぎまわることなどできはせぬ、
となれば、心を決めたぞ、おれは悪党となって、
この世のなかのむなしい楽しみを憎んでやる。
筋書きはもうできている、その危険な幕開きは、
まず呂律のまわらぬ予言、中傷、夢占いによって、
二人の兄、王エドワードとクラレンス公ジョージを、
おたがいにとことん憎み合うようしむけることだ。
このおれが奸智奸才に長(た)け二心を抱く男であるように、
王エドワードが心のまっすぐな信じやすい男であれば、
今日にも兄クラレンスは監獄にぶちこまれれるはずだ。
Gを頭文字にする男が王位継承者を殺すだろう、
という予言を兄のことと思わせておいたからな。
待て、企みは胸の底に秘めよう、クラレンスがきた。
太字で示した部分…。
こんな気持ちは分かる、共感できる、なんて書くと、僭越と思えようし、生意気とも思われるかもしれない。
しかし、実体験からして共感するしかない。
ただ、太字で示した部分に続き、「心を決めたぞ、おれは悪党となって、この世のなかのむなしい楽しみを憎んでやる」なんて、気概(!)も覇気も小生にはない。
むしろ、小学校に上がるころには、心が空っぽになっていた。
心が磨り減ってしまっていた。
保育所時代に、自分の心の可能性を蕩尽し浪費し、挙句、磨耗し尽くしてしまった。
十歳の頃には追い討ちを懸けるような事態もあったっけ。
小生の場合、ひたすら自分を摩滅させ、味も何もない水に沈湎(ちんめん)しゆくばかりだった。.
芝居の『リチャード三世』(の主役)が、王家の一族にあって、ひたすら血で血を洗う憎悪に満ちた権力闘争であるなら(だからこそ、作り甲斐・見甲斐のあるドラマになる)、ガキの頃の小生は、その印画紙というか、闇の海の中で足掻いて、ただ曖昧の海の底へ沈み行くだけの、外からは全く、面白くもなんともない、沈黙の冷たい、死のドラマ(! やはり、ドラマはドラマだったのだ)なのだった。
このあたりのことは、他でも書いたのでここでは略す。
本作品についての感想など、小生が書くのは、それこそ僭越というものだろう。
ただ、とにかく、この作品は、身につまされるドラマだった、それだけは言える。
関連拙稿:
「シェイクスピア著『テンペスト』の一節 」
「足掻き…」
(09/08/03 作)
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コメント
「この作品は、身につまされるドラマだった」 -
こういうことが言えるのが凄いです。私などは距離を置いて客観的に機構的みてしまうのでこういう文芸作品を本当に没頭して読み漁るとことが出来ないのです。羨ましいというか、やはり才能なんでしょうね。
投稿: pfaelzerwein | 2009/08/06 23:19
pfaelzerwein さん
本文にあるように、小生の<ドラマ>は陰画の世界の<出来事>。
小生には、pfaelzerwein さんのように、「距離を置いて客観的に機構的みてしまう」姿勢も能もない。
ドラマといっても、「小生の場合、ひたすら自分を摩滅させ、味も何もない水に沈湎(ちんめん)しゆくばかり」の、しょうもない話です:
http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/2009/02/post-768b.html
投稿: やいっち | 2009/08/07 15:45