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2009/08/26

ウィリアム・ジェームズの命日に寄せて

 今日8月26日は、アメリカの哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズ(William James)の命日である。
 彼に付いては、ブログでは、「上村一夫…劇画なる世界に焦がれ戯画に生き」の中で、書いた日が1月11日、つまり彼の誕生日ということで、若干、採り上げたことがあるだけ(以下、William Jamesのカタカナ表記が一貫しないが、気にしない!)。

 学生時代を中心に、サラリーマンになってからも含め、彼の主著『宗教的経験の諸相 上・下』(桝田啓三郎訳、岩波文庫刊)を3度も読んだにしては、扱う頻度(も内容も)少ない(し薄い)。
 但し、ウィリアム・ジェームズの哲学に初めて接したのは、高校時代のことで、『パース・ジェイムズ・デューイ』(世界の名著59)中央公論社)を読んだ中でのこと。
 その前に、ラッセルの『数理哲学入門』を読んで感激したことが前史としてあるので、その際に(解説文などで)ウィリアム・ジェームズの名に接していたかもしれない。

 ブログでは触れることは稀だったが、ホームページでは、長文(だけ)の思い出話めいた記事を書いている:
ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(前文・承前)

 これを読み返して、我ながらびっくりなのは、3度めに読んだのは、わずか6年前のことだということ。
 自分でもすっかり忘れている!

 今日は、懐かしさもあるので、ウィリアム・ジェームズの命日に事寄せ、上掲の雑文から一部、抜粋しておく。

ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(前文・承前)

(前略)本書は、要約したらつまらない。まさに多くの宗教的経験、体験の事例集の一面があり、そうした数々には、直接触れてもらうしかないのだから。
 下手すると、何か狂気の世界に踏み込んでしまいそうになるし、そうでなくても、現代は、キルケゴールではないが、水平化、平面化、天上もなければ、地下もない、つまり高貴なる世界も仰がなければ、深遠の深みに畏怖することも避ける、そんな賢明なる常識人の世界なのだ。
 それでも、人は昔から何か圧倒されるような凄まじい世界に驚倒されてきたのも事実なのだ。その証言の数々を嘘っぽいとか、昔の話だとか、ある種の異常な心理に過ぎないのであり、それはそれで興味深くはあっても、それは単なる好奇心の対象であっても、こんな科学の発達した時代にあっては、やはり時代錯誤の感は否めない。
 恐らくは、その辺りが常識なのではなかろうか。まともな常識を持っていれば、神がかりなことはうっかり口にはしない。昔風な言い方をすると、キ印と間違われる恐れが多分にある。
 小生も、日頃、日常の中ではそんな話は一切しない。微妙な問題なので、相当程度に互いに信頼関係がないと、そんな話題には立ち入れない。
 せいぜい、ファンタジーとか何かのサスペンスとか、怪奇モノとか、オカルトとか、そんな類いの中に収めて、ああ、怖かったとか、面白かったとか、で、さて、十分、怪奇の世界を堪能したことだし、日常の世界に舞い戻るかな……、つまりは、ジェットコースターか何かに乗ったのと同じ、娯楽の範疇の中で、それなりに楽しめばいい、というわけだ。
 しかし、やはりそれでも、人には平板な心のままでは納まらないことがある。というより、まともな精神の世界のほんの一歩外には、寒風か烈風か嵐か闇の牙か分からない世界が広がっていると感じる。
 小生は例えば、小説(や映画)の世界で、娯楽としてのサスペンスものは、嫌いではないが、退屈である。スリラーも同じだ。
 何故か。それは、そもそも、生きていることそのものが謎であり、驚異であり、言葉の本来の意味で有り難きことだと思うからである。何が不思議といって、雨とか風とか、木や草が育つこととか、大地があることとか、空があることとか、太陽があるとか、月が空にぽっかり浮かんでいるとか、動物や植物やそして人間が存在していることとか、ともかく、在ること自体が不思議なのである。
 そのメカニズムは科学で分析される。その細密な分析を読むと、メカニズムの凄さに圧倒される。恐らくは、今後、さらに科学は発達し、より体系立った理解が進むものと期待してよさそうである。
 が、さりながら、そんなメカニズムの想像を絶する絶妙さにも関わらず、そもそもモノがあるというそのこと自体の驚異の前には、どんなメカニズムの説明も解明も色褪せてしまう。
 そもそもどうしてモノがあるのだろうか。
 そもそも、どうして人は人の悲しみや喜びに共感するのだろう。赤の他人の述懐なのに、時にもらい泣きしてしまうのはどうしてなのだろう。人の気持ちが分かる! と痛切に感じてしまうのは、どうしてなのだろう。
 他人とはいえ人間なのだから当たり前。そうなのかもしれない。が、赤の他人という場合だってありえるじゃないか。それでも、何かの気持ちや心の在り様を吐露されると、心にグサッと来ることがある。
 年を取ると人は涙もろくなるという。身体の節々が痛み、筋肉も衰え、涙腺も筋肉か肉体の機能の一部だとしたら、齢を重ねていくうちに涙腺が緩んだりするのも、仕方の無いことなのだ……。
 そうだろうか。恐らくは、涙腺が緩むというのは、単にいい年をして涙を流してしまう自分が恥ずかしいというシャイな気持ちを隠しているだけであって、実は、年を取り経験を重ねるうちに、さまざまな場面に遭遇する人の気持ちが、ああ、あんな時は自分もそうだった、そんな辛い複雑な心境で悲しかった、苦しかった、辛かった、誰にも分かってもらえない不安を抱えて途方に暮れていた、云々が実感を以って感じられ、人の気持ちが我が事のように直感的に共感できるから、だから、もらい泣きなどをするのではないだろうか。
 何が不思議といって、分かる! 人の気持ちに共感するというそのことの不可思議さに匹敵することなどないのだと小生は思う(その共感するという一点において、犬や猫などの動物も恐らくは人間と同じほどの深さを蔵しているのではと内心では思っている)。
 そしてそのことの根本にあるのは、人生は一回限りだ、繰り返すことは出来ないのだ、一回仕出かしてしまった失敗は取り返しがつかないのだ、やり直しはできないのだ、もう一度、トライすることは勿論できるが、それもまた一回限りの人生の中の経緯という織物の中に新たに織り込まれていく決意と経験なのであって、一回限りという深刻さ、有り難さには変わりはないのである。
 科学の原則は何か。実験であり検証であり、再現可能性である。その上で、証明された論理や分析が科学の体系の中に組み込まれていく。
 が、人の人生は一回限りである。いつか何かとんでもない勘違いをする科学者(乃至は似非科学者)がいて、こうやってこのような科学的な方法で生きれば間違いのない人生が送れる、などと証明したとして、さて、そんな証明に基づく方法で人生を生きようと思うだろうか。
 一回しかない人生なのに、その科学的に証明された論理で生きることを決意できるだろうか。その証明が間違っていたら、一回限りの人生がパーになってしまうのに。
 そう、科学は発達しさまざまな局面でアドバイスなり細部に渡る理解の仕方なりを提供してもらえるかもしれない。しかし、科学が科学であり再現可能、検証可能が基本である限りに於いて、人生そのものに根本的な知恵を与えてくれることはありえないと小生は思う。
 繰り返すが、メカニズムを知りたいという好奇心は人間の本性に近い知的動機であり、小生も文学作品などを読むが、同時に、科学関連の啓蒙書を好んで読んできた。恐らく、これからも(今も)読みつづけていくに違いない。
 それでも、小生が15の頃だったか、深甚なる思いの中で感じた、そもそも在るということ自体の驚異には、科学は決して到達することはないと思うし、それゆえ、文学や音楽などの芸術がつたれることも無いし、個別科学に脛を齧られつづけて、すっかり痩せ細った哲学ではあるけれ、唯一最後の牙城である在るということそのことの驚異や不可思議さの念が在る限りは哲学も廃れることは無いと信じている。
 哲学はメカニズムの究明のために存在するわけではないのだ。
 精神や心に関してさえ、哲学はメカニズムなどを追い求める必要などない。それだったら、心理学やその他の諸科学に任せればいい。
 そして、哲学する上での前提となる驚異の念という素朴な世界、しかしだからこそ根本的で深く且つ広い世界、そうした世界を論じるよりも、さまざまな実例でその世界を垣間見ようとするのが、本書におけるジェイムズの狙いなのだと小生は理解しているわけである。

(中略)

 或る日、物心がつき、世界の中に自分があり、その不思議な違和感を一瞬は感じても、やがては大概の人は日常の世界に心を紛らせていく。日常の忙しさと、水面上でのジタバタという泳ぎに終始し、水面下の深淵を忘れるか、無視する。生きてあるということの不可思議さを当たり前の光景として受け止め、それなりの精神の波立ちはあっても、深甚なる精神的疑義を抱くことはしないで生きていく。また、そうでないと生きられない。
 しかし、幾許かの人々は、ある日、超えてはならない一線を超え、大地が決して強固ではないこと、大地は実は太古の神話にあるように、巨大な海に漂っているのであり、その海さえも宇宙の中に何に支えられることなくぽっかりと浮かんでいるに過ぎないことを実感する。足元の大地が割れる。亀裂に飲み込まれる。しかも、一旦、亀裂が生じ始めたら、その罅割れに終わりがないことを気が狂うほどの恐怖と共に実感する。この日、彼は二度目のある意味で本当の誕生を経験するのである。
 本書は、まさにこうした深甚なる精神的危機を一度でも経験した人への、ジェイムズ自身の体験を踏まえての共感の書なのだ。

 本書には、他人の体験という形でジェイムズ自身の体験も載せられている。
 彼自身、深甚な精神的危機にあったり、憂鬱症に悩まされてきた。
 そんなジェイムズの手記を「ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(前文・承前)」に転記してある。
 その一文を読むためだけでも、「ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(前文・承前)」は覗いてみるに値するかもしれない ? !

                             (09/08/26 作)

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