マイケル・モ-ガン著の『アナログ・ブレイン』は再読でした
マイケル・モ-ガン 著の『アナログ・ブレイン―脳は世界をどう表象するか?』(鈴木 光太郎【訳】 新曜社)を読んだ。
→ マイケル・モ-ガン 著『アナログ・ブレイン―脳は世界をどう表象するか?』(鈴木 光太郎【訳】 新曜社)
こうした脳科学関係の本を読むのは、いずれにしても数年ぶりかもしれない。
興味が湧くと関連する本を読み漁るが、啓蒙的な本を物色し終わると、数年は他の分野へ関心が移っていく、ちょっと腰の定まらない自分が居る。
ある程度、想像が付くと思うが、今、何故、こうした脳科学関係の本かというと、脳死や臓器移植の問題が世上を賑わせているから、という動機・契機があることは否めない。
今は、「臓器移植法の改正をめぐり、本人の提供の意思が不明な場合も、家族の同意があれば臓器摘出が可能になる「A案」と、「臨時子ども脳死・臓器移植調査会」の設置などを盛り込んだ野党の参院議員有志による「独自案」は6月30日、参院厚生労働委員会で趣旨説明と質疑が行われ、実質審議入りした」といった段階のようだ。
審議がどのような推移を辿るのか予断を許さない。
それにしても、国会が審議を、結果を焦っているのは、「 臓器移植手術を海外に頼っている日本に、逆風が吹いている。世界的な臓器不足から、「臓器提供の自給自足」を促す声が各国で強まっているからだ。日本は臓器の提供そのものが海外に比べて圧倒的に少ない。しかも、15歳未満は臓器提供が認められておらず、子供の場合、生きのびるには海外に行くしかない。しかし、それは臓器移植の機会を外国の子供から奪っているにも等しいのである」ということで、何のことはない、国内の関係者の切実な声に応えて、というわけではなく、あくまで他聞を気にしてのこと。「日本人に対する風当たりも強まりつつある」ことがあるからなのだ。
何年にも渡って議論が積み重ねられてきて、機が熟したから、なんてこととはまるで違う背景のゆえなのである。
これは、児童ポルノ禁止法(案)が、国会で改正案審議入りとなったのも、深刻な児童の被害が目に余ってというのではなく、日本発の児童ポルノが世界を席捲していて、これまた世界の眼が気になって、外聞を憚って、渋々、しかしおお慌てで、体裁を整えようとしているという情けない契機があってのこと。
問題に立ち向かうのではなく、児童らのことを考えてのことでもなく、あくまで外聞が大事なのである。
それでも、真剣に議論を尽されるのなら、それはそれで善しとすべきだろうが、実状はお寒いばかりなのではないか。
とはいっても、児童ポルノは、表現の自由などの問題より、まずは被害を未然に防ぐほうが大事と思うが、脳死と臓器移植の問題については、自分にはどうにも判断が付きかねる。
そういえば、「日本では1968年に最初の心臓移植(和田移植)が行われましたが、このときのドナーが本当に脳死だったのか、レシピエントは本当に移植が必要だったのか、ということが後に大きな問題となりました」というが、当時、中学生だった小生は、テレビで生中継された最初の心臓移植の模様を家族で見守っていたものだった。
今なら、そんな中継を一般家庭に流すなんて、ありえないのではなかろうか。
本人の意思が不明であっても、また15歳未満であっても、家族が子供の臓器の提供を承諾すれば可能とするのが大勢であるという流れが一方で醸成されつつある。
国会議員(少なくとも衆議院議員)の大半は議論が面倒なので、安直な「A案」にあっさり傾いてしまったようだ。
緊急性はあるといっても、議論の性急さには危惧の念を抱かざるを得ない。
さて、本題に戻るとしよう。
出版社側の説明…というより、本書の著者による「はじめに」の言葉が本書の性格や著者の主張を理解するのに参考になるだろう。
「脳スキャンをはじめとする最新の技術や脳傷害の研究、動物研究から明らかになってきたのは、脳は、外界を無数の地図でモデル化していて、そのための特定の仕事に特化した無数のアナログコンピュータをもっている、という事実です。カエルはハエを捕るのに、方向や距離を計算していたら間に合いません。虫を検出し、動きの方向を検出するアナログコンピュータの描く地図によって、瞬時に反応しているのです」とした上で、著者は語る:
脳のなかには複数の地図があって、それらが私たちの空間知覚の基礎をなしている。哲学者バークリーや科学者ロッツェは、空間の経験を理解するために決定的に重要なのは、私たちが身体を動かさなくてはならないことであり、そこにはマップが必要だと主張した。私も同じ意見だ。ものを見るとき、眼は物理空間のさまざまな方向からくる光を受けとり、次に脳がその物理空間に位置づけられた行為を産み出す。視覚の最初の段階は、眼のなかでの像であり、その次にくるのが後頭部にある粗いマップである。・・・・・・。そしてそれらのマップにはかならず空間的要素があって、次の段階に欠かせない。視覚から行為にいたるこの経路には、マップが消えて「空間の視覚的意識」が現れるといった、謎めいた横道などない。空間の視覚的意識というのはたんに、網膜から行為にいたるさまざまなマップの活動そのものなのだ。
ただ、これは小生の理解の浅さのゆえなのだろうが、こうした理解は、小脳などの機能には適した、それなりに納得できる考え方だと思われるが、大脳の機能全般もこのようだと思っていいのかどうか。
延髄次元での反射だけじゃなく、小脳も大脳も同じ理解でいいのか。
思考もアナログブレインの発想が通用するのだろうか。
上記したように、小生は既に本書は読んでいて、感想にもならない雑文を書いている:
「ディケンズ…虐げしは何者か?」
びっくりしたことに、本書を(途中まで)読んでの印象を明快としている。
今回は、必ずしも、理解が行き届かない場面が多かった。
理解力の低下なのか。
アナログコンピュータなのはいいとして、また、意識もクオリアなんて掴みどころのない概念を持ち出さなくてもいいのだとしても、思考もそうなのかどうか、今回、読んでみて、そこまでの記述が見当たらなかったように感じたのだ。
意識の遡上に乗るまでは本書のアナログコンピュータの理解でもいいように思える。
が、意識の反省、まして思考となると、どうなのだろう。
やはり、分からないままなのである。
それはそれとして、ややスピンアウト的な拙稿「ディケンズ…虐げしは何者か?」は、後半部分は読んで面白いかも。
また、脳死による臓器移植の問題ではなく、植物人間の問題を扱った拙稿に、「柳絮:植物状態の<人間>」がある。
小生の思考は、当時のまま、停止してしまっている。
(09/06/28 作 09/07/01追記)
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