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2009/07/01

映画『劔岳 点の記』の周辺

 映画「劔岳 点の記」(原作:新田次郎『劔岳 点の記』(文春文庫刊) 監督・撮影:木村大作 出演者:浅野忠信 香川照之 松田龍平 宮﨑あおい 仲村トオル 役所広司 石橋蓮司 鈴木砂羽!)を観てきた。

09062413

← 前日に街中でこんなポスターを見かけたのが、映画を見に行った動機のひとつになったみたい。やはり、見なくっちゃ!

 富山は地元だけあって、先行上映されていて、山好きな父も早々と観てきていた。
 小生もようやく重い腰をあげて映画館のある町へ車で。
 エアコンが(も)壊れている車なので、曇天の日に出かけたかったが、父母がデイサービスに行っていて、不在の間にと思うと、天候のことより、家庭の事情やタイミングで行くしかない。

 少なくとも地元ではヒットしているのだが、小生が観に行った時点では、6月13日に先行上映が始まって二週間ほど経過しているし、何と言っても週日の日中ということもあって、映画館は楽々座れた。
 ただし、さすがにいい席は早めに埋まっていて、小生はやや前のほうの席を選ぶことにした。

 映画の上映まで十分以上あるということで、映画館前のフロアーをウロウロしていたら、ソフトクリームの看板が目に入った。
 ってことは、食べたいってことだ!
 慌てて…って、別に客が列を成しているわけでもなく、急ぐ必要もないのだが、食べたい一心で売り場へ。
手にしたら、即、ペロペロし始めた。
 美味い!


 映画館に足を運ぶのは、一体、何年ぶりだろう。
 下手すると、十年は経過している?
 前回、映画館へ足を運んだのはいつのことだったか、さっぱり覚えていない。
 それほど、腰が重いし、映画館を敬遠しているってことなのだろう。


 剱岳(つるぎだけ)は、「飛騨山脈(北アルプス)の立山連峰にある標高2999mの山。富山県の上市町と立山町にまたがる。日本百名山の一つ」で、新田次郎(の『劒岳 〈点の記〉』)によると、「一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山」とされるとか。

 また、「剱岳 – Wikipedia」によると、「氷河に削り取られた氷食尖峰で、その峻険な山容は訪れる者を圧倒し、登山家からは「岩の殿堂」とも「岩と雪の殿堂」とも呼ばれている」とも。
 さらに、「剱岳 – Wikipedia」の「登頂史」によると、「弘法大師が草鞋千足を費やしても登頂できなかったという伝説がある」という。

「記録に残っている剱岳への初登頂は、1907年(明治40年)7月の、陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎らによるものである。7月13日、測量隊の測夫・生田信らが長治郎雪渓ルートから本峰の登頂に成功し、続く7月28日に柴崎らが登頂を達成している。生田らによる最初の登頂の際、錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖が発見された。古い焚き火跡もあったという」ことで、これが映画のラストシーンに関わってくる。

 また、「剱岳の山頂には長らく三角点が設置されておらず、標高を低い精度でしか測量できなかった。柴崎芳太郎らは山頂には立ったものの、岩場の険しさから重い三角点標石を運び上げることができず三等三角点の設置を断念し、標石のない四等三角点とした。そのため、三角点の設置場所を記載する「点の記」は作成されなかった」という点も、陸軍の幹部の評価の低さにつながり、偉業の素晴らしさに比して、客観的評価の低さという悲劇性が際立つわけである。


 さて、映画館に入って間もなく上映となった。
 といっても、まずはCMが延々と続く。

 ここで、ちょっと悪い予感が。


 それは、スクリーンに映像が映し出された瞬間から抱かされてしまった予感。
 映像の肌理が粗いのである。
 別に映画で上映された今回が格別ダメだというわけではない。
 我が家のテレビが昨年の秋から液晶画面のものに変っていて、その液晶の精細な画像に比べれば、粒子の粗さが目立つのだ。

 しかし、まだ、CMだ。
 本編が始まったら、違うに違いない…。

 何しろ、監督・撮影はかの日本映画界を代表するキャメラマンの木村大作さんで、彼は「撮影者」を自称されている方。黒澤明も彼の撮影技術を認めている存在でもある。『鉄道員(ぽっぽや)』や『八甲田山』、『居酒屋兆治』、『赤い月』と、印象的な映画のカメラマンだった。
 小生が学生時代に観た、『阿寒に果つ』も彼の撮影だったのだ!

 ということで、映画の演出や脚本、役者の演技もさることながら(厳しい妥協を許さぬ環境での撮影で、無駄な演技が削ぎ落とされていくようで、淡々とした、その実、秘めた情熱の熱さの静かな迸りを感じさせる演技だった。自分は険しい雪面を登る場面を見ながら、自分が雪の降る関越自動車道をバイクで走行して遭難しかけた事件のことを思い出していた)、何と言ってもこの映画に付いては、映像が命のはず。

 それが、もし、肌理(解像度)において液晶テレビの画像より劣るとしたら…。
 映画の出来とは何の関係もない、とも言えるのだろうし、実際、映画に没頭したら、そんな瑣末なことなど吹き飛んでしまう…はずなのだが、ついついどうしても、映像の画面の粒子の粗さが最後まで気になってならなかったのである。
 そんなどうでもいいことに気を奪われる奴は小生一人だろうか。

 まさか、我が家の液晶テレビが実際の映画鑑賞に際し、こんな感想を自分に抱かせるとは夢にも思わなかった。
 小生の眼がデジタル画面に慣れすぎたということなのか…。


 さらに、気になったことがもう一点。
 音楽の担当は、かの池辺晋一郎さんである。
 実際の音楽演奏は、仙台フィルハーモニー管弦楽団だとか。

 映画を見ていて、バッハやヴィヴァルディ、アルビノーニなどの曲が流れているなと思っていたが、案の定だった:
 

J.S.バッハ(編曲/池辺晋一郎):幻想曲とフーガ ト短調 BWV542 より「幻想曲」
J.S.バッハ:管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068 より“G線上のアリア”
ヴィヴァルディ:四季「冬」作品8 RV297
ヴィヴァルディ:四季「春」作品8 RV269 より 第2楽章
ヴィヴァルディ:四季「秋」作品8 RV293 より 第2楽章
ヘンデル(編曲/池辺晋一郎):ハープシコード組曲第2番 HWV437 より 第4曲サラバンド
マルチェッロ:オーボエ協奏曲 ニ短調 より 第2楽章
アルビノーニ:アダージョ ト短調


 これらの作曲家のどの曲も好き。
 ブログの記事を書く際も、小生が僅かに所蔵するバッハやヴィヴァルディの四季や、何度となく借りてくるアルビノーニなどの曲を流しっ放しにしている(もしかして、この個人的事情が妙な作用をしたのかもしれない)。
 アルビノーニやハイドンなどは、小生の失業時代(94年)に、<発見>遭遇した作曲家。

 …で感じたのは、映像と音楽とはマッチングしなかったということ。

 あくまで小生の感覚だが、映像も素晴らしいし、音楽も素晴らしいのだが、その両者が目から耳から我が身に迫る際、どちらかがどちらかを邪魔する、多くは音楽ばかりが耳を突くようで、映画に集中できない場面が多かったのである。
 映像や音楽のどちらがどうだということではなく、あくまでマッチングの上での違和感なのだが。

 さて、映画そのものについての感想は書く必要はないだろう。
 静かなる感動を呼ぶ、素晴らしい映画だった。
 ただ、やはり、撮影の技術ということではなく、映し出される映像(画像)の粒子の粗さに最後まで祟られるようであった。
 こんな感想を持つなんて、我ながら情けないのだが。

映画『劔岳 点の記』公式サイト
映画「劔岳 点の記」公式ブログ
剱岳 – Wikipedia
木村大作 – Wikipedia
雪の関越自動車道遭難未遂事件

                              (09/06/30 作)

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コメント

日本アカデミー賞「劔岳」が6冠
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=15&id=1132230

第33回日本アカデミー賞授賞式が3月5日、東京・港区のグランドプリンスホテル新高輪で行なわれた。木村大作監督の「劔岳 点の記」が監督賞、助演男優賞を含む6部門を制覇。木村監督の悲願だった作品賞は、渡辺謙主演の「沈まぬ太陽」が受賞した。
(中略)
最優秀助演男優賞を戴冠した香川は、「撮影前に西田敏行さんから『お金をかける映画は多いけど、命をかける映画は少ないよね』と言っていただいた。まさに我々は命をかけて撮影に臨みました。この賞は、劔岳が撮影を許してくれ、生きて帰らせてくれたからこそいただけた。困難を極めた映画を最後まで着地させた木村大作さんに心から感謝したい」と涙声で話した。
                 (以上、転記)

投稿: やいっち | 2010/03/06 10:41

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