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2009/07/26

ジョン・D・バロウの説く「対称性」の意味

ミチオ・カク、エミー・ネーターを語る」で、「(一九一八年に数学者のエミー・ネーターによって発見された)物理学の基本原理のひとつは、「系が対称性をもつなら、結果的にそれは保存則になる」というもの」について、書いている。
 では、そもそも、現代物理学において、対称性の持つ意味とは?

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← ジョン・D・バロウ著『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔【訳】 青土社)

 対称性については、ネットでも情報が十分に得られるものと思う。
 が、今、読んでいる最中の、『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔【訳】 青土社)から、著者であるケンブリッジ大学教授で、天文学者、数理物理学者のジョン・D・バロウの語る、対称性の意味を同書から抜粋してみる。

 同氏は決して科学哲学者ではないが、現代物理学の現状や意味について、知る限りで小生が一番、信頼し、関心を寄せている人物の一人なのである。

 同書での話の脈絡を抜きにしての転記なので、今ひとつ、分かりづらいかもしれないが、「対称性」という指針となる原理が如何に、現代素粒子物理学において重要視されているか、雰囲気だけでも嗅ぎ取ってもらいたい。


 素粒子の世界に関するささやかな解説から何がわかっただろう。そこを支配している自然法則は、複雑な日常世界では見られないほど正確で純粋であることがわかるはずだ。素粒子の世界では、対称性は――保存されていても破れていても――指針となる原理である。そこには自然法則とそれが支配する対象の正体との間の深いつながりが存在するからである。素粒子の変転に関する法則を求める道は、取り組み方の点でプラトン的だ。自然は最大最善の対称性を用いるものだという信念に基づき、その対称性が体系的に探られる。自然法則は、世界の観測可能な特徴を変えずに世界に対してなしうることのリストに帰着される。この哲学は、「理論」を構成する方程式の体系につながる。しかし理論を立てるより、それを構成する方程式を解く方が難しい。理論にはエレガントな対称性があるが、それはその理論のどのにも必ず表れているわけではない。しかし、実際の自然に見られるはずのものを教えてくれるのは、その解の方である。やはり、背後にある事物の構成には、深遠な論理が保持されていることがわかる。自然は自然法則を定めるためにいちばん奥底で対称性を用いるのであって、個々の事物の形を特定するためではない。これらの対称性はすべて、根底のところでは、自然法則の形が観測者の運動状態や個々の視点とは無関係に同じに見えるための安全装置である。この見方は、アインシュタインがその斬新な天才で推し進めたもので、自然が対称性を使うことのいちばん実りの多い解釈であることがわかった。さらに、素粒子のふるまいに関する現行版の法則によって表わされる対称性は、まだ見つかっていない真に根本的な法則について所有されている特性の少なくとも一部なのではないかと思っていい。最悪でも、真実の一部は構成しているのである。
 自然は最大限に対称性を用いているという成功した前提は、未知の自然法則の形に対する二種類の姿勢をもたらした。一方には、対称性の定めによって明示的に禁じられていないことはすべて、自然法則の必須の一部だという「全体主義」的な進め方があり、他方には、対称性を維持するために必要のない物は禁じられているというもっと「自由主義」的な哲学がある。今のところ、どちらを指針とするかは趣味の問題である。
 われわれは徐々に、自然のいちばん効果的で調和の取れた数学的法則は、空間の次元が三を超える形で定められていることを示す証拠を明らかにしてきた。われわれが見ている世界は、考えも及ばないほどとてつもない複合性を備えた、もっと高次元の宇宙の薄片にすぎないかもしれない。この結論に至る論理は、信仰による公理からも導かれる。物理学者は宇宙の「統一性」を宗教のように信じているのだ。この信仰を原動力にして、自然におけるすべての力と粒子についての統一理論が求められている。そういう理論が存在することは疑問視されない。自然法則の体系に、宇宙の中で支配力を有する領域が異なる二つの競合する体系があって、二種類の生物のように競争的に相互作用することが想像できるというのに。必ず対称性を用いるという信条、できるだけ少ない数の成分を用いる一個の統一された記述の探求は、素粒子物理学を主題とする自然法則の形について理論を開発する際の掟とも言えるものである。何せこの領域では、現状で実験で手の届く範囲には、実験的な証拠はないのだ。実際、「万物理論」が存在するとして、それは観測によって正しいとする手段や能力を超えていることが明らかになるかもしれない。われわれは、ある美しい数学的な理論が、これまで求めてきた原理上の問題すべてが解けるような独特の特性を有していることは発見できるかもしれない。そこには既知の欠陥や不完全さはないだろう――正しい理論と言えばそれしかないかもしれない。それでもそれを実験によって確かめたり、競合する他の候補を反証したりできるはずだと思える理由はない。この宇宙がこの宇宙が人間にその基本法則を発見させてくれるようにできているはずだと思う理由はないのだ。運が良ければ、自然の最も基本的法則による数学的記述の一部を確かめる何かの方法を見つけられるかもしれないが、それと同様に、その記述の決定的な特徴は、自分たちには決して再現できない極端な温度やエネルギーの環境においてのみ現れることが明らかになるかもしれない。
 内側の宇宙の立法を探る方向とつかのま出会ったことで、自然法則とそれが支配する事物が、われわれが世界について見たり察知したりすることとどれだけ遠く隔たっているかが明らかになる。ニュートンによって、何世代もの科学者が世界を巨大な時計仕掛だと見る気になったが、現代の素粒子物理学は、それが絶えず変化するパターンによる万華鏡であることを明らかにしている。それでもわれわれは、自然法則が作用する基本的なレベルにどこまで迫れたか、疑問は解けないままである。 (p.258-60)

参考:
レーダーマンからエミー・ネーターへ
ミチオ・カク、エミー・ネーターを語る

                               (09/07/17 作)

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→ ジョン・D.バロウ著『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)

 ちなみに、ジョン・D・バロウ著の『宇宙に法則はあるのか』(松浦 俊輔【訳】 青土社)は、7月22日、約二週間を費やして、ようやく読了。

 本書に付いては、小生に批評する能はない。
 ただ、時間を掛けて読むに値する名著だと感じたというまでである。
 
 なお、ジョン・D.バロウについては、拙稿に「無限の話の周りをとりとめもなく」がある。

                             (09/07/23 追記)

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