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2009/05/08

古井由吉『杳子・妻隠』の周辺

 ちょうど一ヶ月前の日記となるが、「古井由吉の論考は難しい」(2009/04/03)の中で、古井由吉著の『ロベルト・ムージル』(岩波書店)の感想文を書いている。
 しかし、実際には感想文にさえならなかった。彼の思考法がまるで理解できなかったのだ。
 字面は追えるのだが、中味がまるで腑に落ちない。

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→ 古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫) 小生は、単行本(図書館の本)で読んだ。

 古井文学を理解するには、評論ではだめで、やはり小説を読まないとダメなのだろう、近いうちに読んでみようと思ったのだった。
 戴いたコメントにも、以下のように書いている:

論考は(小生には分かりづらくとも)、同氏の訳したムージルは、あるいは小生にも読めるものなのか、これも、当分は判断や評価は保留としか言えないです。
とにかく、近い将来、同氏の小説を読んでみて、改めて違う印象を持てるのか、確かめてみたいと思ってます。

 という事情もあって、同氏の『杳子・妻隠』(新潮社)を借りてきて、一昨日、読了した。

「杳子(ようこ)」も「妻隠(つまごみ)」も仮名が振ってないと、読めない人がいるやもしれない(小生もそうだった)。
 最初から不穏な予感。

 が、小生だって、自費出版の形で出した本『緋襷』(表現社)は、寄贈した友人から、読み方が分からないと言われたものだった。
 ちょっとショック。且つ、配慮が足りなかったと思わされた。
 自分の中では、本書を書く数年前から備前焼に惹かれるものがあって、創作の取っ掛かりやモチーフにも、窯などの光景や上薬(釉薬(ゆうやく))が窯変(曜変(ようへん)とも)する様子があったりする。
 頭の中で自明なものとしてあるので、「緋襷(ひだすき)」に仮名を振ることも思い至らなかった。
 不明の至りである。

 まあ、拙著は誰の目にも触れないからいいとして、同氏の小説「杳子」は芥川賞作品で、さすがに小生も読めた。
 なんといっても、「杳子」が芥川賞を受賞したのは、1970年で、小生が辛い初恋の真っ最中の頃。前の年に『ジェイン・エア』で文学に開眼(?)していた。なので、印象に残っている。
 でも、読まなかったはず。

 ただ、いずれにしろ、題名にさえ手間取るというのは、読むのにちょっと敷居が高いという感じがしてしまう。
 実際、読み出してみたら、文頭から古井ワールドだった。
 小生の読解力が足りないのだろうが、空気に透明感がまるで感じられない。
 淀んでいる。
 が、これが欠点というのではなく、むしろ、人の存在の自明さと不可思議さとの境の曖昧さに何処までも寄り添っている、鬱陶しくて目を背けるか、もういい加減にしろよと、健康な精神の持主なら突き放してしまうところを、最後まで付き合いきっていく。


「杳子」の冒頭を転記して示してみる。この一節で作家の文章の良し悪しを忖度してもらうためではなく、むしろ読む手と作家との相性を確かめてもらいたい:

 杳子は深い谷底に一人で坐っていた。
 十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。
 彼は午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それから沢にそって陰気な灌木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ちょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。
 谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した灌木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼうっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。
 岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだった。

 これは「第64回芥川賞受賞作-昭和45年下半期-」からの転記で、ここには、当時の「選評(抜粋)」が載っているので、一読してみる甲斐があるかもしれない。

 というわけで、小説『杳子』は、主人公の杳子が「単独行の登山の帰路、岩の上にうずくまって動けなくなるところから作品は始まる」(以下、引用は「古譚の水脈 古井由吉『杳子』」から)。

 ちなみに、作家の古井氏も、「登山愛好家であり、しばしば単独行を試みるのだという」。安直かもしれないが、読み手としては主人公の杳子は、作家のある一面に他ならないのだろうと推断してしまう。
 その主人公は、どんな女か:

人間であるということは、立って歩くことなんだなあ、と杳子は思ったという。立ちあがって、どれも自分とひとしい重みをもつ物たちの間で、生意気にも内と外に分けて、遠い近いを分けて、自分勝手な視野をつくって、大きな頭を細い首の上にのせてうつらうつらと歩きまわることなのだ。だけど、内と外に分けたとたんに、畏れが内側に流れこんで、いっぱいに満ちて、姿全体にどこか獣くさい感じをあたえる。自分はもうここから立ち上がらない。

 杳子は、どんなときに幸福を感じるのか:
彼女は見つめながら自分の力を岩の中へ、その根もとへゆっくり注ぎこんでいった。すると岩はひとつひとつ内側からいよいよ円みを帯び出して、谷底の薄暗い光の中で、ほんとうに混り気のない生命感となって、うつらうつらと成長しはじめた。杳子も岩と一緒にうつらうつらと成長する気になった。杳子は幸福を感じた。

 境目も、正常(健康)と異常(病気)との境目もあるし、生(性)と死との硲(はざま)でもあったりする。日常と非日常との、揺らめいて止まない輪郭線へのこだわり。
 ねっとりと絡み合った相手なのに、一歩、外に出ると、声さえ掛けたことのないような遠い、他所の人という風情にたじろいでしまう。

 読んでいながら、小生はしばしば見当違いと思いつつも、島尾敏夫作品を連想していた。鬱勃たる分厚い空気感は、全く無縁とも思えない。

 さて、本書には「妻隠」も所収となっている。

「杳子」は、「神経を病む女子大生との山中での異様な出会いに始まる斬新な愛の物語」なら、「妻隠」は、「若い夫婦の日常を通し生の深い感覚に分け入る」といった作品、と出版社側の説明

「妻隠」は、『古事記』に親しんだことのある方なら、スサノオの下記の歌を思い出すだろう(須佐男と櫛名田姫の説話:「地上(人々)における結婚の起源」ともされる祝婚歌とも):

八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を

 意味合いは、「雲のむらがり立つ出雲の宮殿。妻と住むために宮殿をつくるのだ。その宮殿よ」といったもののようである(「歴史の扉:古事記物語②(スサノオの命)」参照)。
 
 この「妻隠」について、情報を得ようとネット検索したら、とんでもなく参考になるサイトが見つかった:
「妻隠」(古井由吉)(後半) - 日々の日記

 下手な解説文よりよほど読み応えがある。
 こういうサイトに遭遇すると、もう、我輩如きが感想を綴るのが憚られる。

 読み手次第だが、「杳子」より「妻隠」のほうが、完成度はともかく小説としての凝縮度が高いように感じられた。
 必ずしも、この「妻隠」の中の一番、いいくだりというわけでも典型的な箇所というわけでもないが、せっかくなので、感想を口ごもる代わりに、一部、転記しておく:

(略)寿夫は畳から頭をすこしもたげ、のけぞらして、妻の姿を探った。日頃、枕もとに坐ってなにかをしている妻にむかって、ふと思いついたことを言う時の恰好だった。これだったのかと気づいて憮然としたが、さいわい礼子は畳の上に両腕を流して寝息を立てていた。妻に見られていないと知って、彼はわざと深く頭をのけぞらせて妻の寝姿をしげしげと眺めた。子供っぽい額と鼻すじと、寝息につれて上下する胸のふくらみと、ゆったり立てた膝が一線になって重なって見えた。ワンピースの裾が膝からずり落ちて、柔らかに寄った布地の皺の中から、太腿の内側の蒼白さがのぞいている。と、礼子が視線を避けるように頬を畳に埋め、腰をひねって、立てた膝をそのままゆっくり左へ倒した。そして腕を小さく胸の前に重ねて、全身をゆるいくの字に折り曲げた。
 その時、吹き抜ける風の中に、彼はもう長いこと忘れていたにおいを嗅ぎ取ったように思った。惰性になった接吻のにおい、体の隅々まで細かく染みわたった汗と疲れのにおい。(以下、略)

                              (09/05/03 作)

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