ストイキツァ著『影の歴史』の影に戯れる
近現代美術史が専門のヴィクトル・I.ストイキツァ著『影の歴史』(岡田温司、西田兼訳 平凡社)を読んだ。
確か、読売新聞でストイキツァの紹介がされていて、気になり、早速、図書館で予約しようとした。
が、生憎、富山市には何冊も訳本があるうちの本書しか在庫(蔵書)がなかった。
→ 「シャネルの香水 「エゴイスト (プラチナム)」のための広告、1994年」 本書に掲げてある画像で、これが一番、印象的だった。ネットで良質の画像を探したが、見つからない。どうやら、動画のCMの一場面のようだ。これは、本書に挿入されている写真をデジカメで撮影し、且つ、画素数を縮小したもの。随分と昔、初めて「エゴイスト」のCMをテレビで見たときは、感性の鈍い、且つ、男性用化粧品には縁遠い小生も、随分と思い切った広告だとビックリしたものだ。さすがに香水は使わなかったけど。
いつもながら、富山市の文化の貧困さ(少なくとも図書館の所蔵する音楽CDや書籍の少なさ)を思い知らされる。
小生などが読む本は、そんなに珍しい本ではないのに、蔵書にない場合があまりに多い。
さて、というわけで、本書が、ストイキツァの中の一番いい本なのかどうかは分からない。
「絵画の歴史と不可分であるにもかかわらず、断片的にしか扱われてこなかった影の歴史を芸術表現との絡みで包括的にまとめた名著」というが、確かに、<影>を焦点にしての美術史を書きおろすなんて、興味を惹かれる。
出版社側の紹介によると、「絵画の歴史は事物の影をなぞることから始まったにもかかわらず、美術史学が影の歴史を主題的に扱うことはなかった」とか、「「影」は文字どおり絵画の陰画であり、それはもうひとつの絵画史を形成する。影の人類学の誕生」とあって、着眼点は面白い。
「絵画の歴史は事物の影をなぞることから始まったにもかかわらず」という点の真偽のほどは、小生には分からない。
本書によると、「古代ローマのプリニウスは、ある娘が旅立つ恋人の影の輪郭を線でなぞったときに絵画が誕生した、と伝えている」という。
だったら、アルタミラの洞窟画などはどうなるのか、小生には理解が及ばないが、一つの神話として、「古代ローマのプリニウスは、ある娘が旅立つ恋人の影の輪郭を線でなぞったときに絵画が誕生した」というのは面白いとは思う。
「影踏み遊びで鬼に影を踏まれたときの、微(かす)痛みのような感覚を覚えていないだろうか。影はわれわれにとって、幼い頃から馴染(なじ)みの分身である。視覚芸術で影が重要な役割を果たすのも当然のことだろう」(「影の歴史 書評 本よみうり堂 YOMIURI ONLINE(読売新聞) 評・田中純(思想史家)」より)…。
「視覚芸術で影が重要な役割を果たす」のは確かだろう。
← ムンク(Munch, Edvard)「Vampire」( 1893-94) 影というと、ここでは載せないが、ムンクの『思春期』が印象的。(画像は、「Munch, Edvard - Obrazy galeria obrazów」より)
影踏みではなく、影遊びということで、随想めいたことを書いたことがある:
「影遊び…断片3」
それどころか、「影踏み」と題した掌編を書いたこともある:
「影踏み」:
そうだ、ボクが一番、怖かったのは、ボクの影が日暮の時が近付くにつれ、やたらと長くなっていって、もう、とめどなく長くなり、それがまるで、闇の海から魔物の触手が伸びてきて、ボクの影をわし掴みし、掴むだけじゃなく、思いっきり引っ張って、ボクを影ごと、闇の海の底に引き摺り込もうとしていると感じた瞬間だった。
溺れる!
以下、また的外れな駄文を綴りそうなので、本書についてのちゃんとした評は、ネットで見つけてもらうことにする。
例えば、「 『影の歴史』──驚きの一冊:銀の雫」とか。
本書でも扱われるが、プラトンの「洞窟(どうくつ)の譬(たと)え」(『国家』)は、想像以上に意味するところは深い。
「洞窟(どうくつ)の譬(たと)え」とは、「人間は暗い洞窟の中で奥の壁に向けて座らされ、悪魔が操る動物の模型の影絵を見て「本物の動物だ」と思っている囚人のようなものである」というものだが、我々人間の世界からすると、自分の肉体やこの世こそが生身の、自然な、リアルそのものの世界に他ならないと思っている(思うしかない)が、宇宙論で言う暗黒エネルギーが物質を形成する素粒子より宇宙の質量からすると圧倒的に多いなんてことは度外視するとしても、何処かしら、ふと影の不気味さに脅かされることがなくもない。
というより、影の世界は、あくまで影の領分に押し込めておきたいのかもしれない。
切れば血の出る生身の肉体。
風に吹かれる爽快な感覚の齎す夢幻的な解放感。
→ デ・キリコ『街の神秘と憂愁』(1914年 油彩 カンヴァス 個人蔵) (画像は、「各画家の絵たち」より)
が、影のはずの、光の影に過ぎないはずの世界が、気がつくと我々の世界を浸潤し、一人、また一人と呑み込んでいく。溶けていくのか、合流していくのか、本来の闇の場に戻っていくだけなのかは定かではない。
思えば、写真も絵画も漫画も不思議な営為だし、奇妙な営為の産物なのではないか。
リアルな存在に溢れている(はずだ)し、その世界に余計な写し絵を、さらに虚構する意味は何処にあるのか。
本能的な営為なのだといえば、それまでだが、あるいは、描き写し表現する営為、試みにこそ、真のリアルに触れる瞬間…少なくともその端緒があると、それこそ本能的に嗅ぎ取っているのかもしれない。
写真もだが、絵を描くなんて時に随分と余計な、回りくどい営為と感じられてしまうことがある。
ほんの一部の作品を覗いて、こんな作品だったら、リアルな自然を眺めたり感じたりしたほうが遥かにましだ、と感じさせられ、見るのもうんざりな気分になる。
いい写真家の作品を見たことがないからだろうか、(女性の)ヌード写真でも、これは! という写真を見たことがない。
これだったら、生のヌードでいいじゃん、なんて。
← アーデルベルト・フォン・シャミッソー作『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(ジョージ・クルックシャンクによる挿絵) (画像は、「ペーター・シュレミールの不思議な物語 - Wikipedia」より) この物語に付いて、本書で大きく扱われている。「影をなくした男」という題名でも知られている。
が、こうした不満を覚えるのは、鑑賞する人(つまり、この場合、小生自身!)の感性や知性の鈍さに因を求めるべきなのは言うまでもないとして、それでも時に、虚構(写真や絵画を虚構と呼ぶのは適当ではないかもしれない)の世界のはずなのに、自分などには到底、触れ得ない世界への突破口足りえていると感じさせられることがある。
リアルへの切っ先であったり、滑らかで清澄な、しかし底知れぬ世界へ導くのかもしれない、一瞬だけ開いた扉だと感じさせられたり。
まあ、滅多にないことだが。
あれれ、またいつものことながら、余談に流れてしまった。
→ ヴィクトル・I.ストイキツァ著『影の歴史』(岡田温司、西田兼訳 平凡社)
まあ、小生などが本書の感想を書く必要もないだろう。
「「影をなくした男」を主人公にしたシャミッソーの小説」を巡っての話は面白かったし、豊富な挿画が、類書では採り上げない作品が多いので楽しめた。
ただ、惜しむらくは、価値観的になのか、嗜好からして仕方ないことなのか、西欧の絵画に偏重していることだ。
ないモノねだりとは思うが、水墨画(山水画)に限らず、東洋の美術での影の歴史にもう少し目を向けてほしかった。
(09/05/07 作)
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