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2009/05/17

辻 邦生著『海峡の霧』をめぐって

 先週末から読み出していた辻邦生著の『海峡の霧』(新潮社刊)を読了した。
 小生は、彼の小説よりも、何故かエッセイが好きである。小説については、『西行花伝』や『夏の砦』など少しは読んだが、あまりピンとは来ない。
 それに比してエッセイのほうは、かなり読んでいるほうだと思われる。相当の量を出されているので、全部とは言えないが。

 本書は、一昨年の夏、軽井沢で亡くなられた辻氏の遺稿集の第二弾ともいうべきものである。第一弾は、『微光の道』(新潮社刊)で、両方ともに細君の辻佐保子さんがあとがきを書かれている。
 小生が辻文学の何に惹かれているのか、自分でも分からない。上記したように、肝腎の文学作品に関しては熱心な読者ではないのだから、言うべき何もないのかもしれない。

 では、エッセイの何に惹かれて読んできたのか。

 それは、彼の文学への姿勢なのではないかと推測している。若くして文学の世界に導かれて、様々な曲折を経て、海外に留学までして文学を正面から研究し、悩んだ末に独自の手法と姿勢を見出していった。
 これだけのことなら、優秀な学者と同じのように見えなくもない。たまたま研究のテーマが個々の文学者や文学作品というのではなく、自らが実作に励んでいるに過ぎない…。
 とりあえず、いまはそうなのだとしておこう。
 それでも、多くの特に戦後の文学者は、無頼派を気取るわけでもなかろうが、何故か、酒に溺れ、女に溺れ、生活は破綻し、その世間との衝突や世間的常識との格闘をエネルギー源にして、創作活動に勤しむ方が目立った。

 辻の顔立ちを写真で見れば分かるように辻は端正な顔立ちをしている。さぞ、女に持てただろうことは、推測に固くない。実際、育った環境からして、若い女性が彼の(父の)自宅に出入りしていたし、浅草の芝居小屋やストリップ劇場にも彼自身、出入りしていたのだし。
 酒も飲める。結構、気も短いようだし。
 でも、若くしてそうした、よくある文学者の陥りがちなパターンを抜け出して、留学したりするのだし、どんな苦しい時も、文学をやる根拠を失い、美をも信じられなかった時も、語学と書くことだけはやめなかったという。
 ここに彼の資質が現れているのだろう。

 ともすれば、文学にのめりこむあまり、後先を考えず無闇に創作活動に飛び込んでいくのではなく、己の揺れがちな資質を抑えて、着実に文学の世界を学び、また、創作の原点を探り、書くことの楽しみを追究した、その姿勢に憧れているのだというべきかも知れない。
 小生などは、仕事をしながら文学や思想の世界をまさぐっているだけの身なのだが、それだからこそ、自分の出来ないことを傍で見る限りは、さも軽々とやってみせてくれる辻の世界に触れることで、せめてもの慰めを得ているのだ。
 彼は佐保子さんという最良のパートナーを得て、一層、着実に文学に邁進した。お互いのない部分を刺激しあうことで、彼の文学も、人間観察も深まったことは間違いない。
 人を射るような人間観察の目、そして物語を綴る才能、その両者が相俟って、辻は独自の世界を構築しつづけたのだった。

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← 辻邦生著『海峡の霧』(新潮社刊)

[閑話休題]:
 ところで、この辻邦生が高輪に一時期住んでいたということを『海峡の霧』で、改めて認識した。年譜の類いはみたことがあるから知っていたはずなのに、何故か、脳裏を掠めるだけに終わっていたようだ。武蔵野に居住していたというイメージが先行していたのだろう。

 実は、小生も高輪に10年ほど、住んでいたことがあるのだ。だから、本書の末尾の幾つかのエッセイで彼の高輪暮らしが長いことを知り、びっくりしたのだ。長いって、三十年なのである。
 高輪は、今は当然の如く、マンションやらビルなどが建っているし、片方は第一京浜、片方は第二京浜が走っている。その国道に面してはビルの立ち並ぶ一角という印象しか持てないだろう。

 けれど、一歩、どこかの坂を登っていくと、もう、何か別世界のような住宅街、商店街となる。築、何十年というような住宅が密集する中を狭い路地が縦横に走っている。何代目だろうという理髪店やら蕎麦屋さんやら老舗の御菓子屋さんがある一方、小奇麗なケーキ屋さんなども軒を連ねている。
 小生が住み始めた81年当時も、ついこの間までの高輪の風景とあまり変わりはなかった。対この間と注記するのは、近年、地下鉄が通り、その駅が出来たこともあるのだろう、今、巨大な開発の手が高輪の一角に及んでいるため、風景が大きく変貌するだろうことが予想されるからだ。

 そうした住宅街の真中を走る道は、それこそ古代の東海道そのものなのである。
 旧東海道と誤解しては困る。遠い昔は、旧の東海道は未だ海そのものだった。道は高台を昔は走るしかなかった。それは高い縄手道である。縄手とは、広辞苑によると「田の間の道、あぜ道」や「まっすぐな道」といった意味があるらしい。
 恐らくは遥かな昔は田の間の細い道だったものが、古代(有史の頃)にはまっすぐな道に改良されたのだろう。そうした高縄手が訛って高輪となったと物の本には書いてある。
 その高輪にちなむ作家として辻邦生は、藤村、透谷、小波などを挙げている。当然、小生は今、そこに辻の名を加えるわけだ…。

 愛する藤村に因む明治学院も高輪の真向かいの白金台にある。小生は仕事柄、月に何度もその前をとおる。藤村が洗礼を受けた高輪台町教会もあった(ある?)という。 そういえば高輪の近くの某、歴史上の有名人が葬られている寺の住職は、小生の高校の同窓生だというし。
 返す返すも情ないのは高輪に住んでいた当時は、そんな由緒の類いを一切知らず、遊び呆けていたことである。今になって、そのツケが回ってきているということなのだろう。

☆ 高輪など古い街道については下記のサイトを参照:
「街道を尋ねて」 北倉庄一
(2)東京都内に残る旧東海道      高輪大木戸→品川宿→鈴ヶ森
http://www.telecomtribune.com/kitakuraHP/tokaido/02.html

                              (01/12/26 作


参考:
島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺
島崎藤村『家』あれこれ
島崎藤村『春』を読みながら
岡本綺堂『江戸の思い出』あれこれ
読書拾遺(辻邦生と丸山健二の体つながり)

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