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2009/05/23

久世光彦『時を呼ぶ声』から三好達治「土」へ

 過日、ブライアン・グリーン著の『宇宙を織りなすもの 上・下』(青木 薫 訳 草思社)の上巻を読了した。
 次は当然、下巻…のはずだが、予約していた図書館が下巻が準備できました、などと連絡してきたため、やむなく下巻を先に読み、上巻を今になって読み終えた次第。

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← 三日ほど前の日記「庭の植物たちの息吹」で、冒頭にキウイの写真を掲げている。その際、「木に実ったキウイフルーツだろうか? 実はまだ、とっても小さい」などと書いているが、とんでもない勘違いだった。実と思ったのは、実は花の芽だった。小生のコメントを嘲笑うかのように、この日記を書いた翌日、庭掃除していて、キウイが開花していたのだ!

 普通、上下巻を予約している場合、待たせることになっても、上巻が先で、下巻の準備はあとのはず。
 図書館の方は、親切でとりあえず確保できた下巻の準備を連絡してきたのだろうか。
 あるいは、単なる流れ作業?

 まあ、でも、大部の、読み応えのある本を読了した満腹感は味わえた。

 下巻もだが、上巻も、さすがに『エレガントな宇宙』の著者であるブライアン・グリーンの説明はユニークだし、深い。
 改めて宇宙像が今、激変の時を迎えつつあること、さらに、新しい施設の稼動が始まって、超ひも理論が(ほんの一端ながらでも)実証されるか、理論が検証されるかの瀬戸際の時を迎えていることを実感させてもらった。
 詳しくは書けないが、エントロピーの概念についても、時間の矢との関係で初めてお目にかかる論点・視点があって、ただただ楽しませてもらった。

 さて、続いて、母校(高校)の先輩でもある、富山にゆかりのある久世光彦著の『時を呼ぶ声』(立風書房)を今日、読了。
 人気作家・演出家の自伝的エッセイということもあり、殊更、本書についての感想文は書かない。

 ただ、三好達治の詩「土」に絡んでの一文があったので、詩もいいし、ちょっと触れておく。
 久世によると、中学の国語の教科書に載っていたというが、小生は全く記憶にない。
 同氏は、1935年生まれで、小生より19年ほど年上。
 あるいは、同氏の中学時代の教科書には載っていても、小生が中学生だった60年代後半には別の詩に変ったのか(それとも、やはり、国語嫌いの小生の記憶には残らなかった、感性には触れなかったということか)。

 小生の場合、三好達治というと、多分、高校の教科書に載っていたと思うが(中学の許可書ではなかったと思う…自信がない)、なんといっても、「」である。

     

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 とはいいつつ、初めてこの詩を教科書で目にし、授業で読まされもした時、後年ほどに感動したかどうか、記憶が曖昧である。
 自分の中では、確か、仙台で学生時代を過ごす中で、何かの折に、ふと、思い出したというか、口ずさむことがあって、じんわりと雪の清冽さと澄明感と、温かな淋しさ、郷愁感のような感覚を味わいだした、というのが事実だったような気がする。

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→ 久世光彦著『時を呼ぶ声』(立風書房) 「あの日の空の青さは何だったのか。五つの小学校を転々とした少年期、都市が全焼する空襲の夜の美しさ、軍人だった父の晩年、戦後の歌や映画、文学という女人への恋…」。(画像は、「Amazon.co.jp: 通販 」より)

 さて、思いがけない場所で数年ぶりに、三好達治(の詩)に再会した

 その詩「」とは、以下:


    

  蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのやうだ

 久世氏は、授業で先生が、「白い蝶の羽がヨットに見えた。夏の白茶けた土が、ヨットを浮かべた海に見えた。目の前に起こっていることを、そのまま何の疑いもなく子供のように受け入れる。これが《詩人の目》なのだ」と、言ったという。
 こんな先生の一言を覚えているというだけでも、出来の悪い小生には驚嘆すべきことだが、それはさておき、以下、久世氏は、先生の説明に首を傾げた、という。

 以下、久世氏の「土」という詩に対する感想を転記する:

 これはそんなに素直で明るいしなのだろうか。そのとき私が思い出していたのは、戦災に遭った翌朝、まだ煙の上がっている瓦礫の上に並べられた、数個の女の人の死体だった。その中に、それほどよごれていない浴衣を着た死体があった。どうしてか、その浴衣はびっしょりと水に濡れていた。上半身は筵(むしろ)で覆われていて、まだ若い足がのんびりと浴衣の裾から覗いていた。裾の模様は、戯れ合う番いの蝶々だった。
 蟻が曳いていくのは、蝶の死骸の一部である。一匹の蟻が運ぶには大き過ぎるから、この蟻が曳いているのは、たぶん片方の羽であろう。ということは、どこかの茂みの奥に、残りの骸(むくろ)はまだ残されているのかもしれない。仲間たちに解体され、その部分を一つずつ、夏の日盛りの下、蟻たちが自分たちの巣へ運んでいく。巣は冷たい土の中にある。蝶は病み、蝶は地に墜ち、蝶は土に還る。――私にはヨットの帆を先頭にトコトコと進む、葬列が目に浮かんだ。――夏は哀しい季節だ、と私は思った。

 久世氏が「夏は哀しい季節だ、と私は思った」というには、十歳の時に迎えた終戦の日の底抜けの青い空といった戦争体験などを鑑みないといけないだろう。
 
 それはさておき、この感想を久世氏は中学の授業の際に先生の説明を耳にして抱いたのだろうか?
 確かに「そのとき私が思い出していたのは、戦災に遭った翌朝、まだ煙の上がっている瓦礫の上に並べられた、数個の女の人の死体だった」と書いてある以上は、そうなのだろうが、幾分は若干の歳月を経ての、後年からの分析の要素も加味されていると思うのは邪推だろうか。

「蟻が蝶の羽をひいて行く」その光景が「ヨットのやうだ」というのは、少年の(実際には三好達治の)素直な感想であることを否む理由はないように思える。
 分析すれば、あるいは自らの体験を背に詩を詠むしかないとしても、詩の持つ直截的なインパクトは、さすがに三好達治の詩と思わせられる。
 少年…多分、子供なのだろう。
 自分の目や仕草の如何に(相手や対象にとっては)残酷でえげつないものであっても、時に平気で、あるいは時に自らの傷を瘡蓋(かさぶた)を剥ぐような、抉るような気持ちで大人の常識を侵犯してしまう。
 蟻は蝶に対して残酷なのだろうか。
 餌が目の前にあったから、ただ大人がステーキをフォークで突っ突いて押さえ込み、ナイフで切り裂くように、ただ、欲望と本能と嗜好とに衝かれるままに日常の営為を為しているだけなのではないのか。
 あるいは、子供はちょうどそのように(大人には残酷に思えることを)無邪気に楽しんでいるだけなのではないか。

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← ブライアン・グリーン著『宇宙を織りなすもの 上』(青木 薫 訳 草思社) 「この世界の本当の姿は、私たちの「常識」から、どれほどかけは離れているのだろうか?」


 そんな分析さえも無粋に感じさせる三好達治の詩なのである。
 蝶の羽は真っ白なのか、黄色なのか、いずれにしろ、夏なのか、それとも五月の季節はずれの暑い盛りなのか、日に羽は眩しいほどに白く輝いている。
 海のヨットの帆が陽光に一閃され輝くように、蝶の羽も眩しかっただけなのではないか。
 そこにあるのは、そう、ただ、「蟻が蝶の羽をひいて行く」その光景が「ヨットのやうだ」と嘆声する感動だけであるように思える。
 だからこそ、三好達治の詩は素晴らしいのだろう。

                               (09/05/22 作)

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