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2009/05/15

小寺菊子作「念仏の家」(一・二・三)

     念仏の家

        一

 私の家の祖先は、越中の國水橋といふ小さな漁村の生れであつた。
『有磯(ありそ)の海』といふのである。枕の草紙に、『渡りはしかすがの渡、こりずまの渡、みづはしの渡』とある。その水橋である。文治二年正月末、源義経主従十七人が山伏の姿となつて奥州へ落去の途次、京都堀川を忍び出て、越前に入り、安宅の関をすぎ、倶利伽羅峠をこえて、越中に入り、水橋川を渡つた――といふ史話がある。鎌倉時代、富山城より二十四年おくれて、小さな城が築かれ、天正六年に姉崎和泉守が、水橋城で討死してから廃城した――と伝へられてゐる。
 明治十一年――明治天皇が北國御巡幸の際、九月三十日午前十一時五十分、鹵簿粛々として東水橋町に御着輦になり、広瀬といふ旧家に御座所を設けたが、その時の行列は八百三十五人、乗馬は百十五頭で、天地開闢以来嘗てない壮観を極めた――と郷土小史に書きのこしてある。その水橋である。短歌俳句の愛好家が多く、芭蕉の像を祀つて運座の会が開かれたりすることは、富山市と変りがなく、私の父もその水橋の旧家に生れた一粒種の青年であつた。土地柄売薬を業としてゐたが、明治十一年ごろ富山市に移り、前田藩の士族で、祖父は町奉行、父は和歌徘徊の先生をして御殿に使へた浅野家の娘(私の母)を嫁に貰つた。悠長な士族の家に育つて、遊芸三昧に日を暮した私の母は、商家の家風とは何事も合はず、姑に苛られて、年中出るの入るの騒ぎをしてゐたのである。
 汽車が水橋近くに進むと、私の心が動揺した。二十年前にちょつと帰省したときも、酒屋をしてゐる『尾島屋』といふ本家に一泊したが、その後お互ひに年賀状さへも絶えてゐるので、家族の生死すら今は不明なのである。なんとしても感傷的にならざるをえない。蜃気楼で有名な魚津、それから滑川、そして水橋、水橋とよんだ。昨日は黒部峡谷の秋色を探るために宇奈月温泉で一泊したが、宴会や何かでひどく盛つてゐた。けれど今日の汽車は殆ど空つぽで、私は一人悄然と下車した。午後四時ごろで、空がどんよりとくもつてゐた。落莫とした小さな駅だから、赤帽なんかもゐない。荷物をどうしたものかと、そこに立つてゐる駅長に訴へると、それでもバスの車掌をよこしてくれた。長い年月、都会生活に慣れた私の眼には、心の底から寒々とするほどの侘しい村であつた。

 土地の人たち四五人と一しよに小さなガタバスに乗り、酒屋の前でおりた。昔と同じに七八間もずつと紅殻格子の入つた北國風の軒下に、開け放された店の入口がある。そこの土間へトランクを一つ宛運び、酒倉につゞく内廊下のだゝつ廣い茶の間へ顔を出した。
『お客さんが来られました。』
 勝手の方からひょいと出て来た婆やらしいのが、すぐに奥へ知らせた。
『まあ、よう来られましたね。昨日からあんた、どないにか待つとりましたぞいね。待つて待つて…………』
 懐かしさうに私の手を取つたのは、年老つた主婦のお文さんであつた。この人が生きてゐてくれなかつたら、折角訪ねて来ても、私には取付端がないのである。お文さんは老いた眼にもう涙を一杯ためて、
『長生きしてをりますと、かうやつて又逢はれるもんでござんすね、ほんとうによう来られましたこと、なんといふ珍しいことでござんせんか…………』
 としみじみ私を見るのだつた。私の家が零落したころは碌すつぽ顧りみてもくれなかつたこの家の主人はじめ一族の冷淡さを、今彼女は代つて詫びてゐるかのやうに思へた。私の胸に過去の悲しい記憶のかずかずがよみがへり、眼がしらに涙がにじんだ。十七歳の秋、断然生家を出る決心したのは、このお文さんの弟の義雄といふ青年との縁談が、私に無断で祖母だちが定めかけた為めだつた。そのことも思ひ出されて、お文さんとの邂逅に複雑な哀感が湧くのであつた。

       二

 奥の座敷に落ついてから、いろいろと懐古的な話のつきないうちに、あの人も死んだ、この人も死んだ、と二十年のあひだに幾人も死んでゐる話が、私と何等交渉のなかつた人達であつても侘しく思はれたが、土産に持つて来た海苔の罐をそこへ列べながら、
『義雄さんは今どちらにお住居(すまゐ)ですか?たしか大分前から富山にゐられるときゝましたがゝ……』
ときくと、
『それがあんた、七年前に流感で死にましてね、可哀さうなことをしました……』
 と、お文さんは袖口で涙をふきふき語つた。私に嫌はれて三年の後、気の進まない結婚をしたときいてゐたが、七年も前に死んでゐようとは思はなかつた。少女時代、私が読みものが好きだからと云つて、田舎には滅多にない雑誌や書物を、どつかゝら探し出して来ては持つて来てくれたりして、実直一方の堅い青年だつたが、どうも私は嫌ひであつた。義雄と結婚して、一生田舎で安全な生活をしようなどゝいふ心は毛頭なく、東京へ出て勉強したい願ひで、十七歳の少女は一杯だつたのである。
『まあ、亡くなられましたか、そんなに早くね、随分お丈夫さうな方でしたのに……………』
 お文さんの涙につりこまれて眼を伏せると、窃(ひそ)かな哀感が私の胸にしみた。たとへ、東京へ出ないとしても、私には只規丁面でこちこちにかたまつた義雄のやうな青年に、なんの魅力をも感じられなかつたのだ。私はむしろ、幼少の時から許婚であつたといふ、この家の主人の次兄、當時の醫學生であつた政二の方をよつぽど好きだつた。だが、彼は加賀の醫學専門學校へ入つてから底なしの放蕩者になり、私の父にもさんざん迷惑をかけたので、親類一同愛想をつかしてしまひ、私の縁組は解消したのである。
 お文さんは私が金ピカの袋に入れて持つて来た母の齒骨を佛壇に飾って拝んだ。聖武天皇時代既に越中文化の中心として佛敎が開けてから、この國の人々の楽しみは、ひたすら他力信心に縋るより他ないのだつた。その盲目的信仰によつて生れたものは、かうなるのも前世の約束といふ宿命的「諦め主義」であつた。
 私は最近に撮つた母の寫眞と、若い時分の父の寫眞とを出して、お文さんに見せた。お文さんも過去の人々の寫眞を出して来た。皆それぞれに見覺えのある人達が、一人々々この世から消えて行つたことを思ふと、實に淋しい気持だつた。
『お実家(さと)へ歸つたと思うて、ゆつくり泊つて下はれませぬ。』
 昔から優しい性質の女で、容色(きれう)よしのお文さんは、私のために『はい、蟹、いかの刺身』などこの國自慢の献立をして私を悦ばせた。ピチピチとした男児の孫が三人もあるし、家の中が賑かだつたが、倅(せがれ)――孫の父親――の嫁が去年病死してから、倅は非常に落膽(がつかり)して、神経衰弱で寝てゐると云つて私に會はせない、それが私にある疑問を抱かせずにはおかなかつた。
『又呼吸器ぢやないかな?』
 今の主人の兄もそれだつた。その妹もそれだつた。そして、その兄の娘もさうだつたし、まだ他にもその病気で斃(たほ)れてゐる筈だつた。家が徒に廣いばかりで陽が當らない――一つは雪が五尺も六尺も一晩に降るために、防寒を第一の目的として建てられたこの國の家屋は、南の縁でも庇が深くて日當りがわるいから、自然古寺のやうに陰気である。その陰鬱な薄暗い室々に、或は天井に、柱の木目に、額の裏に、先代が、その妹が、その娘が、次々と残して行つたであらう数知れぬ黴菌が、如何にのんきに悠々といつまでも這ひ摺り廻り、家中で一番弱い人間の頭の上へと落ちて来たのではあるまいか? 衛生知識の乏しい上に、佛敎思想の影響で、早くも世の無常を観ずる習慣から、肺病といへば、あゝさうか、又か、倉も屋敷も持つてゆかれるぞ、今のうちに用心しよう、とすぐに匙を投げ出して、いくら金があつても徹底的の療治をしてやらぬ習慣になつてゐる、病人こそ実に気の毒であるのだ。私はそれを感じてうそ寒くなつた。十九歳で肋膜から肺になつて死んだ私の兄も、大方こゝの家から始終黴菌を撒らしに来てゐたゝめだらう、と思つておぞましかつた。

       三

 夜になつてから、私は二男に案内されて、醫者の家に行つた。
『ほう、大変珍しいんぢやね』
 幼少のころ私と許婚になつてゐた、昔の道楽醫學生の彼は、晩酌後の機嫌のいゝ顔をして、少し背を丸くしながら出て来た。大分もういゝ年な筈だのに、案外若々しい。私は本家の酒屋よりもこの家の方が、それゆゑずつと親しまれるので、二十年の月日を一足飛びにとびこえたやうな気安さで、とんとんと二階に上つた。近頃新築したといふ立派な醫院で、まだ木の香がぷんとしみた。細君は四十五六の善良さうな人で、たしか二度目だつた。皆で愛想をつかさないで、この醫者と結婚させられてゐるようなものなら、両鬢(りやうびん)を首人形のやうに張り出した丸髷なんぞに結つて、私はこの細君とおきかへられてゐたのだらうか――と思ふと、可笑しくてならなかつた。
『こんな立派な家に棲んで、お茶をたてたり、香を焚いたり、俳句を作つたり、随分あなたはのんきなお醫者様ね。』
 私はそちこち見廻しながら云つた。
『いや、さうでもないさ、これでなかなか忙しいんぢやよ、何しろこの地ぢや醫者らしのが、僕の外にたつた一人しかゐないんぢやからね。ときに、お母さんや妹はどうしとるかね。』
『母は一昨年死んだの、妹は丈夫でぴんぴんしてゐますよ、九年前主人に別れて、三人の娘を育てゝ独立でやつていますの!』
『ほう、そりや大変ぢやね。それから、あの、……お房さんはどうしたかね。』
『震災後だつたでせうか、疾に死んぢやつてよ。』
『ふむ、さうかね、もう死んでしまつたかね。ふむ!』
 彼は独りで感に堪へてゐる様子だつた。私の唇がそのとき或記憶の聯想から、自然に徒らつぽくほぐれて来た。
『もういくつぢやつたかな、たしか僕より三つほど若かつたと思ふが…………』
『そんなもんでせうか……醫學校時代あの人とあんた少し怪しかつたんぢやない? ちよつとそんな噂があつたよやうに思ふわね、はつはつはつはつ。』
 無遠慮に云はれて、彼は青年のやうに眼元を紅くした。お房さんといふのは、私を初めて東京へつれて来てくれた私の従姉である。十五の時家老の二男が婿に来て、二十の年にもう未亡人になり、髪を切らされた叔母の長女で、我儘一杯に育つた従姉である。彼女がまだ田舎で女子師範に通つてゐたころ、同じ師範の生徒で、近在の寺の息子の英さんといふ男と出来、ある夜英さんが寄宿舎へ帰る時間がおくれ、学校の塀を跨いでゐるところを門衛に見つけられ、卒業間際になつて退校処分にあつた。それからしばらく従姉は英さんと同棲してゐたが、彼女は自分が卒業すると、ぢきに又新しい恋愛に陥り、英さんを置き去りにして東京へ出てしまつた。そのあひだに金沢の醫學専門學校に入つてゐたこの醫者とも、ちよつと関係したものらしいのだ。
『お房さんも最後はあんまり幸福ぢやありませんでしたよ、社会党の旦那さんを持つて大分苦労して十年も経つてから、又若い愛人を作つて一緒になつたりして、結局はその人とも別れて独りになつてね。変化の多い生活でしたよ。』
『ふゝむ。さうかね、容色はよし學問は出来るし、中々才女ぢやたがね。ふゝむ。』
 この男は幼少のころ許婚であつた私になんの未練も興味も持たないで、あのお房さんのことを今だに忘れないでゐるのか、と思ふとちよつと憎らしかつたが、それは不思議でない。彼と彼女との關係がほんの輕い遊戯であつたにしろ、その時代としては相當モダンな二人が、傍の思惑なんかちつとも念頭にかけないで、徹底的に自分たちの戀愛本能を滿喫したに違ひないのだから。
 醫者は烟管にタバコをつめながら始終ニコニコして、そんな昔語りが楽しさうだつた。強い近眼鏡を透して見える彼の眼は、正午の猫のやうに細くて愛敬がある。
『何しろ、あんたとの噂はたしかだつたわね、今なら白状してもいゝでせう、私、子供なりにもそんな噂きいてゐたんですもの…………』
『馬鹿ぢやね、そんなことないよ、ありや兄貴の方さ。』
 いよいよ眼を細めて嬉しさうに笑つて見せる。
『へい、お兄さんもだつたの、呆れたわね、あの従姉、一生戀愛生活に憧れてゐて、結局ひとつも最後までは掴めなかつたのよ、一體いくつ戀愛したか知れないわ。私なんかをやかましく監督しいしい、自分が戀愛ばかりししてゐたんですもの、でもね、子供はなし、末は淋しかつたのよ。男なんか女が年老つてきたなくなると、もう構つちやくれないんだから、あんたなんかも随分女にや罪作らせた方でせう!』
『若いときやお互ひさ、君だつて東京へ行つてからどんなことがあつたか分らんからね。今の旦那さんとのことも評判ぢやつたぜ。』
 私たちは明けつ放しで賑やかに笑つた。
『本家の長男は、どうなすつたんですの? 又例のぢやない! 子供が三人もあるのに……』
 私は話をかへた。
『いや、神経衰弱なんぢやよ。』
『さう云つてゐるまに例のになつてゐやしないか知ら? 私そんな風に直感したんだけど……一體この土地の人南無阿弥陀佛にばかり凝つてゐて、あの病気を少し早目に諦めすぎるんでせう、なんとか精一杯でもつと治療したら、なほるもんでもなほさずにしまふぢやないかと私思ふわ。東京でも今佛教復興と云つて騒いでいるけど、科學の力が進歩するほど、お念佛の効能が薄くなりやしない? 伯父さんのあんたがお醫者なのに、こんな差出口利いちや惡いけど。』
 醫者はちよつと、ドキリとしたらしく、
『そんなことないよ、呼吸器はなんともないんぢや、只少し氣が弱くてね、去年家内が死んでから、あんなになつたんで…………』
『あんなに日當たりのわるい部屋に寝かしとかないで、どつかへ養生に出したらどう? 大切の息子ぢやないの、お金はうんとあるんだしね、お念佛主義はいゝ加減にした方がいゝわね』
 醫者は軽くうなづくだけだつた。今だにやつぱり『人間の生命』よりも、先祖代々から伝わつてゐる財産の方が大切なのだらうか? だが、私はこの醫者と久しぶりな思ひで對談してゐることは惡い気持でなかつた。

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