小寺菊子作「念仏の家」(四・五)
小寺菊子作「念仏の家」の続き(四・五)です。
文末の注意事項や、「「小寺菊子作「念仏の家」(一・二・三)」アップ」など参照願います。
小寺菊子作「念仏の家」(四・五)
四
その夜遅くまで本家の座敷で、私はお文さんと話し込んだが、お文さんは長男の病気について私に一言も語らなかつた。私に隠す必要はなからうと思つても、肺病ばかりはどこへ行つても人は隠すものだつた。私は富山の寺にある墓の話をはじめた。
『どうもあんまり長い間放つてあるので、心に懸つて仕様がないんもんですからね。私考へたんですよ、水橋にあればこちらでもちよいちよいおまゐりもして下さるんだしするから、この際それを一つ御相談したいと思ひましてね。』
『いゝところへ気がつかれましたね、水橋においてあれば、私どもはどないにでもお守りをしますけれどね、富山にありますとね、どうしてもわざわざ行くことが出来ませんさかい……たまには分家のお墓まゐりもせにやならんならん云ひながら、ほんとに申譯のないことでござんす。』
『私、明日お寺へ行つてその話をしようと思ひますの、どうぞ御主人ともよく相談しといて下さいまし、お盆の月にはたまに読経料を少々送つたりしましたが、とかく怠りがちになりましてね、あのお寺さん、今どんな風ですか!』
『今はあんた、立派なお寺さんになられましてね、何年か前に住職が死なれて、今はそのお稚子はんの時代で、まだ學校へ行つとられますぢや?』
『ほう、すると、私の知つてゐるお稚子はんと云つた方が、住職になつて亡くなられた譯ですか知ら?』
『いえいえ、あんたの知つとられるお稚子はんが住職になつて疾に死なれて、今のはそのお稚子はんの、又そのお稚子はんですぢや。』
お文さんは二度までも語尾にこの國獨特の力瘤を入れた。
『お稚子はんの又そのお稚子はん、すると、あの昔美しかつた、評判の奥さんの孫に當るんですか?』
『さうさう。』
二人は笑ひ出してしまつた。二十年も顔を出さなければその位の変遷はある筈だつた。
『地面はばつちりでようござんすから、どうか手頃なところを探しといて下さいましね。そしてこつちへ移してしまへば私もう安心ですから……』
『それがようござんすね、もともと此方の方でござんすさかいね、どないにか佛(ほとけ)さんたちも悦ばれませう。』
『あんなに一生寺のためにばかり盡してゐたお祖母さんでしたけど、死んでしまへばお寺だつてそれつきりのもんですからね。』
佛教にこつて夜も日もなかつた私の祖母は、年がら年中お寺ごとで忙しく暮した女で、私の少女時代は毎晩佛壇の前によび出され、お經ばかりよまされた記憶が、身も寒くなるほど、私の肝に銘じてゐるのである。
『代が変れば、それも仕方ありませんね、けれど、あのやかましや(有名)の美しい後家さんね、あの方まだ丈夫でをられますよ。』
『へい、さうですかね、もう随分おばあさんでせうね、一體この國の人、若いもんの方がどんどんさきに死ぬやうな氣がしますね、やつぱりもつと日光をとり入れなくちやいけませんね。』
うつかり云つてから、奥に寝てゐる長男のことが思はれたが、全く日光の入らぬ家に醫者が入るのである。然かも頑迷な彼等は、そお醫者の注意さへも、佛教の因果説などに重きをおいて肯かないのである。
佛壇にあhいつまでも燈明がちよろちよろとゆらめいて、燃えのこつた抹香のかほりが廣い家ぢうに漂つてゐる。佛を拝め、佛を拝め、と教へられた幼時が、ぞつとするほど思ひ出される。お文さんは話半ばにでもなんでも、ときどき念佛をとなへた。溜息を吐(つ)くやうな、あの淋しさうな念佛こそ、なんとわれわれの血氣に充ちた靑春の覇氣を挫き、因循なものにしたことか? 私たちの幼時を脅かし、早くも厭世観念を吹き込んだのは、全くあの無常迅速おくれさき立つ世の習ひと、物悲しげに人間の生活を掻き口説いた、愚昧な年老りたちのお念佛ではなかつたか?
五
朝になつてから、私は酒倉を一わたり見物しながら、この念佛の家を今日は出発しようと思つた。百年二百年、三百年とつゞく、このお念佛の家には、年ごとに何程かの富が殖え、それを守るために、皆は節約に節約を重ね、真黒になつて働いてゐるのである。一樽二十一石入りの大桶が、倉の中に高々と列んでをり、酒臭くて歩けない。、雪の降る時分から漬け込みにかゝるので、今は糀(かうぢ)を造る準備中であつた。
大穴のやうな室(むろ)の中に、すつぽり頭を包んで眼だけ出した酒男だちが、室の周囲三尺ほどの▲(末尾註)を『もみがら』で埋めてゐる。仄かなカンテラの灯に映る男らの手足が、黒ん坊の影繪のやうに黙々として動いてゐるのである。蒸せつぽくて口が利けないのらしい。二男はかうやつて酒が出来るまでの順序を、私に語つてきかせた。
『とにかく結構なことですわね、代々やうやつて澤山のお酒を造つては賣り出して、身代がますます殖えるばかしなんだから、ほんとに好いですわ。』
『然し、僕たちに云わせると、こんな小さな村に永住して、一生酒の匂いを嗅いで暮すなんてことは、どう考へても面白い生活だとは思へないんです。今のところ、兄貴が病氣なんで、どうしても僕が働かなくちやならないんですが、兄貴が丈夫になつたら、僕も一つ東京へ出て、何か自分の仕事がしてみたいと思つてゐるんです……………』
『でもね、考へようですよ、地方に落ついてゐて、確りと土臺の定まつた生活をしてゐるといふことは、實に必要なことですわ。失業者のあふれてゐる都會に憧れを持つなんてことは、もはや地方靑年の理想として許されないんですもの、あなたなんかこそ腰を据ゑて、村の疲弊を救ふために、一生懸命努力なさることですね、それが一番急務なんでせう!』
『まあ、さう思つて出来るだけのことは、やつてみてゐますが……』
商業學校出のこの二男はなかなか健康さうで頼もしい、こんな好い二男が控へてゐるので、病身の長男が、一層諦められてゐるのではなからうか? と私に逢はせない長男の靑い顔が、氣味わるく幻に映つた。やがてはその長男も死んで行くのだらう、そして、いよいよこの家にお念佛の聲が高まるのだらう!
有磯の海にしとしと秋雨が降り、陰鬱な空氣が低い屋根々々を壓してゐた。私はみんなにとめられるのを断り、佛壇から母の齒骨をおろして、夕方再び汽車に乗り、三里さきの我生れ故郷富山に向つた。
一臺の自動車に八人も乗つて来て、私を見送つた彼等n一行を、もう一度この世で逢へるかどうかと侘しく思ひながら、私は汽車の窓から顔を出して、いつまでも眺めるのだつた。
――九年十二月――
▲(註) 尸(しかばね)に會(会の旧字体)を組み合わせた旧字(読みも意味も不明)
『近代女性作家精選集 035 復刻 深夜の歌』(尾形 明子監修 小寺 菊子著 ゆまに書房)より転記。
必ずしも全ての旧字をそのままに転記したわけではない。表記方法も一部、やむをえず変えたところもある。
雰囲気は伝わると思うし、何よりも自伝風な小寺菊子の作品を味わってもらえればと思う。
他にも転記して示したい作品もあったが、長さもあるし、自伝的な作品で、人物紹介の観点からも、本作品を選んだ。
本ブログの前篇・後篇というのは、掲載の便宜上、付したもので、作品は、「一」から「五」となっているだけである。
小寺の父の故郷が水橋だと書いてある。米騒動の発祥の地となった土地柄の何がしかを彼女は有していただろうか。
上掲書の解説(榎本隆司)によると、「「念仏の家」がいい。集中最も新しい発表で、秋声の近辺から出ていた「あらくれ」の昭和九(一九三四)年十二月号所載。旧家を支える念仏主義に向けて現代の合理主義が語られ、久々の家郷訪問だが、感傷を排し、情緒に流れることを免れている」とか。
さらに、解説には、「実はこの作品には、時間的には前編と見ていい「我故郷へ 北陸の旅(一)」と、同じく「北陸の旅―2」が、同年二、三月の、やはり「あらくれ」にあった」として、以下の一文が載せてある:
……私一人を便りとしてゐた弟は二十六歳で死んだが、その弟と、一昨年死んだ母とは、青山の墓地に葬つてあるので、つまり父は郷里富山に、母は東京にと、永久に骨まで別居となつた、それが娘の私として何か気にかゝり、せめて歯骨だけでも持つて、父の霊を慰めやうとの孝心から、今回の帰省を企てたのだつた。――(「北陸の旅(一)」)
(09/05/13-14 転記)
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