マリヴォー 著『贋の侍女・愛の勝利』を切っ掛けに思い出話
ピエール・ド・マリヴォー著の『贋の侍女・愛の勝利』(佐藤 実枝/井村 順一 訳 岩波文庫)を読んだ。
図書館で借り出したのだが、CDの書架でビル・エヴァンスやテレサ・テンなどを選び、カウンターへ向かおうとしたら、新書や文庫本の新刊本(新入荷本)の棚が目に入り、ずらずらと眺めたところ、本書が目に入った。
→ ピエール・ド・マリヴォー著『贋の侍女・愛の勝利』(佐藤 実枝/井村 順一 訳 岩波文庫) (画像は、「Amazon.co.jp: 通販 - ファッション、家電から食品まで」より) カバーデザイン(装丁)は、中野達彦氏によるもののようだが、写真は、1991年コメディ=フランセーズの舞台「贋の侍女」(演出は、ジャック・ラサル。90年、ラサルに演出を依頼した、「現代屈指の演出家で座長でもあったアントワーヌ・ヴィテーズ」は、依頼直後、突然死する。「この演出が、ラサルの座長就任後の第一作とな」り、以後、ラサルは何度もマリヴォーの舞台演出を手がけることになる。
出版社側の説明によると、「放蕩者の狡猾なたくらみに対抗する男装のヒロイン、二人の下僕も加わって展開する騙しあいの輪舞「贋の侍女」。恋の成就のために変装し、つぎつぎに邪魔者を片づける王女の活躍「愛の勝利」。現代に復活したマリヴォー(一六八八‐一七六三)の異性装劇二作品」ということだが、恥ずかしながら、小生はマリヴォーなる書き手を全く知らない。
ここだけの話だが、小生、ほんの一瞬だが、アベ・プレヴォーと勘違いした可能性がなきにしもあらず、である。
そう、「マノン・レコー」のプレヴォーである。
まあ、手に取って頁をパラパラ捲った段階で、さすがに違う人と気づいたわけだが、内心、人に気づかれなくて良かったと安堵したものだった。
[以下、全くの余談になるので、本書についての解説は、「Amazon.co.jp: 贋の侍女・愛の勝利 (岩波文庫)のエパメイノンダスさんのレビュー」に譲る。本稿末尾にて、一部だけ転記しておく。]
本書は劇作品で、舞台で演じられるべき戯曲(喜劇)である。
イプセンやチェーホフなどを除いて、小生は戯曲は読まない。
シェークスピアでさえ、ほんの数作品を読んだだけである。
本(文章、科白)だけの形だと話の筋が追えない、ト書きなどで説明してもらわないと何の話やら理解できない…ってこともある(?)が、演劇への馴染みが皆無に近いからということもある。
友人・知人に演劇を楽しむような人がいなかったから、いい影響を受ける恵みもなかった。
が、自分の資質というか嗜好を、嗜好の形成過程をさぐってみたら、どうやら高校時代の出来事に原因の一端があるようである。
その辺りの分析は面倒なので詳しくは止めておくが、簡単にメモだけしておく。
友人(同級生)と演劇について語り合ったことがある。
それは放課後のこと。
クラブ活動には参加しない小生、帰宅部(?)で、授業が終わると真っ直ぐ帰宅…、少なくとも学校を後にするのだが、ごくたまに居残ることもある。
切っ掛けは、三島由紀夫の割腹自殺事件だった。
別に事件に関与するわけもないが、ただ、その余波は田舎の学校でもあった。
小生は、高校二年の半ば頃から哲学好き人間になっていて、哲学や宗教関係の本をメインにちびりちびりと本を読んでいただけの奴で、ろくすっぽ文学系等の本など読まない人間でもあった。
三島文学も当時、文庫本を何冊か読み齧っただけなのだが、そこはそれ、背伸びしたくなるもので、同学年の同級生だが、事情があって一年、留年したか、浪人して入ったとかいう人物と、どういう経緯か忘れたが、放課後、教室に残って、三島の自殺や三島や文学について語り合うはめになった。
内心、ろくに素養もないことがすぐにばれそうで、困ったなと思いつつも、見栄もあり、三島の自殺という衝撃もあり、誰かと興奮を分かち合いたいという思いもあった。
相手が一つ上だというだけで、彼は小生には随分と大人に感じられた。
何を喋ったか、さっぱり覚えてない。
苦し紛れを呟いていただけだったと思うが、話がいつしか演劇へ、演技へと移っていった。
一層、苦手なジャンルへと踏み込んでいった…というか迷い込んでいった。
無論、端緒は三島の戯曲作品だが、記憶する限り、小生は三島の自殺の時点では彼の戯曲作品は読んでいなかったはずである。
(以後も、当時の思い出の余韻の影響でか、一作も読んだかどうか。)
なのに、相手の奴の語りに乗ってなのか、分かりもしない演劇論やら戯曲についてやら語り合うはめになったのである。
まあ、それだけなら高校生だし、そんなことも若い頃にはありがちである。実際、学生になってからも、似たり寄ったりの状況には何度も遭遇している(自ら嵌まり込んでいったのかもしれないが)。
当時、苦しい恋、片想いの真っ最中だった。
その彼女と、幾度か話をする機会があったのだが、話の中で、今、話題にした奴のことが出て来た。
小生が名前を口にしたのかもしれない。
彼女が言うには、彼は役者よ、という。
この「役者よ」という言葉の意味は、当時ですら理解が及ばないでいたと思う。
ただ、何となく彼女と彼との経緯(いきさつ)…因縁を感じた。
あるいは、二人に関わりなど何もないのに、片想いする人間の猜疑心あるいは嫉妬心(奴のほうが自分より彼女の中で、否定的な形であれ、重い存在であるらしいと感じてのことだろう)が、二人を邪推する心理を生み出したに過ぎないのだろうとは(今となってみれば)思う。
一人になって、彼女の言う、「あの人は役者よ」とはどういう意味なのか、煩悶するはめになった。
不毛な煩悶に過ぎず、ただ悶々と堂々巡りの妄念を超え太らせるばかりだった。
演技する、演ずる、一人の素の人間が他者となる、ここにいる人が、視線を多面体の鏡となって、その人の意図する像を結ばせようとする。
純朴(?)なだけの自分には、そのうち、彼女が、あるいは人間が次第に見えなくなってくるのだった。
要は当時、自分は心ここにあらずの状態にあったのだろう。
この辺り、自分で墓穴を掘っていくというか、悪循環の渦中を彷徨っていっただけで、それこそ自作自演のドラマを生真面目に演じていたと言えなくもないのだが、いずれにしろ、演じるということに対し、極端に敏感になってしまった。
しかし、話は実際には半分に過ぎない。
演じる(といっても、演劇上での演技の意味ではなく、普通の人間らしく振る舞うという意味を超えないのだが)という時、物心付いたころの自分のトラウマをこそ語らないと、何ゆえ、神経質なまでに違和感を覚えるのか分かるはずもない。
そこには仮面の心理があるようでもある。
内面が鏡張りの地獄、あるいは光の微粒子がガラス粉の水晶宮での独り相撲。
表皮が剥がれ神経が剥き出しになり、素の自分が見えなくなり、素の自分を取り戻す営みというのは、他者の徹底した観察の上での、割り出された相貌の平均値としての表皮を纏う営みに他ならないということ。
そしてその獲得された表皮の中では、骨格と血肉の風化した果ての流砂以外に何もないという感覚だけが浮遊する。
自分にとって、恋とはありえたかもしれない素の自分の流露の時でもあったようだ。
その肝腎なときに、妙な役者論議が絡まってしまったのである。
鈍感な頭と心では、解きほぐせなくなってしまった。
まあ、安易にも殻に閉じこもってしまったというべきか。
いずれにしろ、役者というのは、異次元世界の人間に映ってしまう。
というより、普通の人間すらがそのようである。
普通の人間というのが観念に過ぎないのだろうとしても。
エッセイや短編などで、わりと頻繁に殻とか蓑虫とかをイメージ表現の言葉として使う。何れも中味がブヨブヨで形を成していない…、形成する前に溶け去ってしまっている、そんな自分、というわけである。
核がまるでないのに、演技など論外。普通も論外。日の光を浴びたなら、一瞬にして焼け焦げてしまう身と心。
演ずる他者に限らず、町行く人が異邦人に感じられる。
埒外に食み出しているのは、自分のほうなのは言うまでもないが。
「Amazon.co.jp: 贋の侍女・愛の勝利 (岩波文庫)のエパメイノンダスさんのレビュー」:
18世紀フランスが生み出した二人の優れた喜劇作家、一人がボーマルシェ、そしてもう一人がこの戯曲の著者マリヴォー。ボーマルシェと違い、マリヴォーはその生涯があまり知られていない人だそうな。ただ、バブルの歴史を語る上で外せないジョン・ローのいわゆる「ロー・システム」の破綻にマリヴォーも巻き込まれ大損こいて生涯経済的不自由に悩まされるたらしい。
マリヴォーの作品を語る上で欠かせないのが新イタリア人劇団とそこに所属していた女優シルヴィアで、1740年の「試練」まで、マリヴォーの書くすべてのヒロインは彼女の存在から発想されたそうな。しかもシルヴィアの男装が大人気だったので、本書の二編もそこらへんから着想がきているそうな。
1779年に新イタリア人劇団がフランスより撤退した後、歴史に埋没してしまったマリヴォーが真に理解されるのは20世紀に入ってから。マリヴォー再生・新読解の流れを受けての本書がある。
(09/05/29 作)
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