あなたを縛るものは何ですか
ネットサーフィンして偶然、見つけた絵描きさん。
今日はちょっと鑑賞会。
作者は、「アートバカmumeのブログ」のサイト主さん。
→ 側溝のコンクリート壁の割れ目から雑草…どころか小花が咲いてきた。誰も目に留めないけど、そんなこと、気にしない。咲きたいから咲く!
作者のことは、ネット上での情報以上のことは何も知らない。絵の掲載を許可してくださったので、断られないうちに、急いでミニ特集を組んでみた。
絵を見て分析などする柄じゃない。
以下の長文の転記文(抜粋)は、旧稿から。
拙文は掲げた絵とは内容的に何の関係もないわけで、絵の背景だと思って、流してください。
(以下に掲げる絵の数々は、未完のものもあるとのことなので、そのつもりで鑑賞してほしい。作品は全てクリックすると、拡大する。)
← 「Cocoon 縛るものは何ですか」(2009 26×26) 「たぶん、言葉をたくさん並べても問いかけられないと思うのです。 知らず知らずいつのまにか、イメージに縛られてることに私たちは気がつかないでいるでしょう」と、作者の自問、そして問いかけ。 (画像は、「あなたを縛るものは何ですか|アートバカmumeのブログ」より)
子供の頃は、誰でも、あるいは多くの方は悪戯に、気侭に絵を描いていた。絵だとは思わず、衝動で、与えられた、あるいはそこらに転がっている鉛筆や色鉛筆、筆、その他で新聞紙や広告、壁などに落書きしていたのではなかろうか。
さて、その児童画だが、本書にもあるように、小学校などで美術のイロハを習ったり、そうでなくても、長じるにつれて社会常識を学ぶに従い、児童の頃の自由奔放な絵の面影は消滅していき、型通りの、常識に囚われた、技術や様式の習得度などで点数の計られるような類いの絵に変貌していく。
で、上手か下手かで色分けされるようになり、自分は下手だとなったら、描き方の指導にうんざりしたら、もう、絵は自分は嫌だとか、自分には描けないとなってしまう。
かく言う小生もその一人である。小学校の四年か五年の頃までは将来は漫画家になりたいと思っていたのだ。が、あっさり挫折してしまった。とにかく、自分の描くものに個性がない、味気ない、アイデアが湧き出てこない、などと、自分の貧相さにガッカリしてしまったのである。
でも、密かには描きたいとは思ってきたし、まして描ける人が羨ましくてならなかった。漫画家も画家であろうと、デザイン画であろうと、それは詩の書ける人が羨ましいというのと、どこか共通しているような気がする。自分に、型や常識にがっちり取り込まれた、窮屈な感性しか感じられない裏返しでもあった。
町中で見かけた児童画で驚いたというか、感動したことがある。当該の文章の行方は分からなくなったので、関連する一文(の一部)を転記しておく:
→ 「Reborn」(2009 27×22 アクリル) 「こんな壁画が発見されました。 …んなわけありません」なんて本人のコメント。(画像は、「持ちつ持たれつ|アートバカmumeのブログ」より)
街中で見つけたのですが、工事現場を覆う白いパネルに、恐らく小学生の1年か2年だろうと思われる生徒の作品の数々が展示してあったのです。
小生は、その作品群に正直圧倒されるものを感じました。まさに磨かれざるミロだったり、クレーだったりシャガールだったりするのです。それともピカソばりの大胆極まる構図の絵もありました。絵筆を握って間もない彼ら、そして生きることを学びつつも未だ闇の中の野獣性を失っていない彼ら、原始の魂が画布にその生々しさのままにぶつけられているかのようでした。
そうした絵を描く彼らもあと1年か2,3年後には勉強をして、当り障りのない無難な絵を書くようになってしまうのかと思うと寂しい限りです。
そうはいっても、大人になっても幼児の魂を維持するなど至難の業です。教育とは猛獣の心を矯め直して人間の心に改変することですし、生の心を剥き出しにしていては10 歳までだって生きるのは気が狂わない限り無理に近いのかもしれません。
まさに芸術家とは幼児の魂を持ったままに、経験と技術を経て彼らでなければ見ることの出来ない世界を示すもののことなのでしょう。
← 「木蓮」(2009 F6 部分 未完) 「花の命のうつろいも表現できたらと思います」とは、本人のコメント。(画像は、「木蓮|アートバカmumeのブログ」より)
作品というのは、いつの頃からか額装されて収められ展示されるようになりました。そこには芸術作品がコレクションの対象に既になっているという問題があるのでしょうが、そうした扱いを突破せんかのようにアメリカなどで一応は画布を使いますが、絵の具などを刷毛を使って飛ばしたり、体に塗りたくったり、更には画布を体で突き破るパフォーマンスを見せたりと、それこそ限界突破の試みがなされました。勿論、戦後の日本においてもそうでした。
しかし、そうして作られた作品も今は額に収まって、あるいは会場や倉庫という額に収まって、それを我々が畏まって眺めて拝見するというわけです。その光景が小生には何故か滑稽に感じられてならないのです。その理由は自分でもはっきりわかりませんが。
それゆえなのか、一部の人が試みているように路上に美と異と変と愚を求めて回るのです。例えばどこかの白壁に塗りたくられた悪戯の絵の数々。その中には力量においてかなりのものが見受けられます。ジミー大西みたいなのが市井には沢山いるのだろうと感慨にふけったりします。正規の教育を受けていないから才能が才能のままに路上で発散され、やがて蒸発していくのでしょう(才能を見逃され、スポンサーもつかないままに埋もれていく可能性の作家たち…)。
→ 「森にあそぶ」(2009 F4) (画像は、「にゃんこ、わけあう|アートバカmumeのブログ」より)
この作品(↑)と、下(↓)の作品を見比べていただきたい。
← 「森にあそぶ」(2009 F4) (画像は、「にゃんこ、わけあう|アートバカmumeのブログ」より)
以下は、作者のコメント.だけど、見る人への問いかけ? それとも、挑発?
花を入れると、イメージが限定されてしまう・・・。 タイトルだけでもそうなりますが・・・。 あ、同じ絵です。 光線の加減で違って見えますけど。 花を描き加えただけです。さて、どちらが画面の中で遊べるでしょうか。
何年か前までの小生だったら、上の白い花の描き込まれていないほうが気に入っていたかもしれない。高架橋の下の削れた壁とか、出来てから何十年も経て朽ち始めたようなコンクリートの壁の悪戯書きや、磨り減ったような、風雨に晒された壁面の、茫漠とした感じが好きだったから。
でも、上の二つの作品(…それとも、完成途上の一つの作品での、試行錯誤なのか)を並べると、下のほうが今は好き。
死の世界のような、幻想というより夢幻感の漂う上の世界が、白い花が、それも目に眩しいほどの白の際立つ白い花が加わることで、リアルと幻想との乖離が感じられ、面白い。
…でも、描き手としては、白い花のないほうが、鑑賞の自由度があると思うのだろうか。
→ 「Cocoon~Reborn」(2009 サムホール) 作者は、巴や陰陽の太極図に関心があるようだ。確かに意味深に思えるし、実際、探れば際限のない問いの連鎖が始まるのだろう。けれど、単なる鑑賞者たる小生には、作者の「作品に向かっているうちに絵具のかすれやにじみや色の重なりに、自分がこども時代に過ごしてきた森や小川や岩場、触れてきた植物、昆虫、飛び立つ鳥などが体中に充満するのを覚えることがあります」という、何気ない(?)モノローグにこそ、共感を覚える。(画像は、「陰陽の太極図、どーこだ|アートバカmumeのブログ」より)
世界はいかに豊穣なるものなのかと、彼ら知的障害者等の作品を見ると、つくづくと感じさせられる。逆に言うと、いかに狭苦しい価値観の中に閉じ篭っているかをまざまざと思い知らされるのだ。
知的障害者等らの描く絵画に底知れない可能性を感じると共に、幼い子どもの描く絵画の世界も、時に驚くものがあったりする。幼い子どもというのは、技術的に拙劣、だから、描かれるのも幼稚な世界に過ぎない…と、言い切っていいものなのか。
もしからした、幼児達は案外と彼等が現に見たり感じたりする、まさに彼等が生きている世界をリアルに描いているのかもしれない。
ただ、あまりにリアルなことと、その突飛もない表現に、既成の価値観や視点や教養や常識の虜になってしまっている大人には、その真の価値が分からないだけなのかもしれない。
あるいは、その想像を絶する現実世界の豊穣さと奥の深さにまともに立ち向かったりしたら、大人として常識を以って生きていけなくなるという懸念を結構、真剣に予感するが故に、臭いものに蓋(ふた)というわけではないだろうが、少なくとも危険なものを大慌てで覆い隠すのではないかと思われてくる。
実際、世界は豊穣なのだというのは、構わないが、しかし、豊穣すぎて、消化し吸収するどころか、その前に際限のない、豊穣さというのは、生きるには危険すぎるのだろう。子どものままの感性があったりしたら、日常を生きることはできない。それが許されるのは芸術家など、ほんの一部の人間の特権なのだろう。
大人になって子どもの感性を持つとは、日々、傷付くということ、生傷が絶えないということ、傷口が開きっぱなしだというkとに他ならない。不可能に近い生き方だ。それでも、バカの壁ではないが、既成の価値と感性という壁をほんの一時くらいは、無理矢理にでも開いてみる必要があるのかもしれない。
胸の奥の価値の海を豊かにするためにも。
← 「カオス」(2009 F3) 「(前略)と思うと、いかに縮こまった制作をしているかってこととか、狭い調和で生かすものが生かせてないことなどが思い当たったりしてしまいます」…。画布に向かって何でも自由に描ける…はずの絵描きであってさえ、目に見えない縛りのようなものを感じてしまう。人間にカオスなんて描けるのか。(画像は、「アウトロー|アートバカmumeのブログ」より)
この世界の中にあって、ひとりの人間がとことん何かの世界、自分の世界を追求し始めたなら、きっと<この世>へは戻れないのだろう。後戻りの利かない泥沼のような世界が、口をぱっくり開けて、そこにも、ここにも、ある。
しかし、理解不能な絵や記号を蜿蜒と描く行為にしろ、常人には窺い知れない動機によるだろう、飽くことのない何かの仕草にしろ、当人たちには、決して止められない営為なのだろう。その営為があるからこそ、他人には狂気の淵に陥ってしまったと思われつつも、しかし、その崖っ淵の何処かで片手で、あるいは指一本で、<この世>に繋がっていると感じているのに、違いない。
あるいは、単に、<そう>すること自体が快感なのか。快楽の営為なのか。絵画…、といっても、現実の画布に向ってなのか、それとも妄想の世界にしかない画面や壁面に我が身を削るようにして描いているのかは、別にして、それは生きることそのものを示す営為なのだ。
→ 「アートの視点から こども心をくすぐる幸福感を探究します」が展覧会のコンセプトかな。 多分、今回、掲載した画家さんも出品される(と思う)。
参考:
「谷川晃一著『絵はだれでも描ける』」
「美に焦がれ醜に嵌って足掻く日々」
「三人のジャン…コンクリート壁の擦り傷」
「苔の花…スパニッシュモス」
「サルガオセモドキに遭遇!」
(09/04/20 作)
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