レンブラントの風景・風俗素描(承前)
[ 本稿は、「レンブラントの風景・風俗素描(前篇)」に続くもの。
長くなったので、続篇を二分割した。
「レンブラントの風景・風俗素描(承前)」
(レンブラントの作品、特に風景の素描などは是非、クリックして拡大してほしい。)
→ Rembrandt van Rijn (1606-1669) source:visipix.com (画像は、「17世紀オランダ絵画 レンブラントの素描・版画編」より)
さて「レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期」を参照してのレンブラント紹介の先を続けよう:
修行時代はアムステルダムでピーテル・ラストマンに師事し、同氏の下でバロック様式を学んだ後レイデンで独立、同地で最初の門弟となるヘリット・ダウなどの有能な弟子を育てる。1632年にアムステルダムへと移住し、代表作『テュルプ博士の解剖学講義』で自身の名声を確立。1634年に裕福な美術商の娘サスキアと結婚(1642年に死別)、以後、大規模な工房を構え弟子たちと共に数多くの肖像画、宗教画、神話画など様々なジャンルの作品を手がける。
← レンブラント『居酒屋の放蕩息子(レンブラントとサスキア)』(1635 Oil on canvas 161 x 131 cm ドレスデン国立近代絵画館 Gemaldegalerie Alte Meister, Dresden) (画像は、「アート at ドリアン 西洋絵画史・ギリシャ神話・聖書の物語」の中の、「レンブラント・ファン・レイン」なる頁より) ちょっと上で、レンブラントは、相対的に少数派である「色覚特性」という才能の持主だったという話題を出したし、上掲の転記文に、「1634年に裕福な美術商の娘サスキアと結婚(1642年に死別)」とあるので、せっかくなので、この色付きの画像を載せる次第である。それにしても、『居酒屋の放蕩息子(レンブラントとサスキア)』という題名は??? 酒場で酔い潰れる旦那(レンブラント)を窘める健気な妻女という構図?
→ レンブラント『放蕩息子の帰還 The return of the prodigal son』(1662 Oil on canvas 262 x 206 cm The Hermitage, St. Petersburg) (画像は、「アート at ドリアン 西洋絵画史・ギリシャ神話・聖書の物語」の中の、「レンブラント・ファン・レイン」なる頁より) お気に入りの絵だからというより、身につまされる思いがあるので、ついチョイス。出来の悪い息子(娘)ほど可愛いって本当…?
← Rembrandt van Rijn (1606-1669) source:visipix.com (画像は、「17世紀オランダ絵画 レンブラントの素描・版画編」より)
ここからいよいよレンブラントらしさ(?)が発揮される。
「レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期」によると:
一時は1000点以上の作品がレンブラント作とされるも、現在はレンブラント・リサーチ・プロジェクトなどを始めとしたレンブラント作品の研究や調査が進み、その多くが弟子の手が加わる作品、又は画面全てが弟子の手によるもので、署名のみレンブラントが記した作品であることが判明している。1642年に手がけた『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』で登場人物も平等に描かなかった為、依頼主たちから大変な不評を招くも、物語性の高い作品自体は高評価を得た。
こうしたことがあったから、上掲の『居酒屋の放蕩息子(レンブラントとサスキア)』といった作品が生れることになったのだろうか。
→ Rembrandt van Rijn (1606-1669) source:visipix.com (画像は、「17世紀オランダ絵画 レンブラントの素描・版画編」より)
ところが、さにあらずのようである。
「レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期」によると:
この一件で注文が激減し、破産など画家の没落を招いたとする逸話は伝説であり、現在では、レンブラントの没落はそれまでの散財やオランダ国の景気の急速な減退による資産運用の失敗、サスキアの死後に雇った家政婦らとの女性関係のもつれからであることが通説である。
お金持ちの素敵な女性を娶り、散在し、資産運用に失敗し、奥方の死後には女性関係。実に充実した人生と思うべき?
文中、「オランダ国の景気の急速な減退による資産運用の失敗」とあるが、「イギリス・オランダ戦争」でのオランダの敗戦という事情があるのだろう。「17世紀後半、イギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で3次(1652年~1654年、1665年~1667年、1672年~1674年)にわたって行われた戦争これによりイギリスの海上支配が確立し、オランダは衰退」というわけである。
← Rembrandt van Rijn (1606-1669) source:visipix.com (画像は、「17世紀オランダ絵画 レンブラントの素描・版画編」より)
こうした諸々の波乱があってのレンブラントのようだ。
「レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期」によると:
しかしこの没落がレンブラントに与えた影響は大きく、身内の度重なる死も手伝って、これ以降の画家の自画像作品に代表される、自己分析による精神性を携えた内向的傾向が顕著になった。また1643年から庶民的とされる版画の制作を開始。レンブラントは生涯にわたり作品を手がけ続け、その評価は晩年期にあっても国際的であったとする説が一般的である。
深い精神性を得るために払った代償はあまりに大きかったというべきだろう。
「レンブラントの風景・風俗素描(後篇)」へ続く。
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