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2008/12/17

磯江毅…リアリティへの永久なる試み

磯江 毅」の画に出合ったのは衝撃的だった。
 出合ったといっても、例によってネットサーフィンしていての偶然の遭遇なのだが。
(以下、例によって敬愛の念…というより畏敬の念を籠めて、勝手ながら敬称は略させてもらう。)

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→ 図録「磯江 毅 Gustavo Isoe」 (画像は、「彩鳳堂画廊(秋の東京滞在記(16))」より。) 保田義孝の「晩秋のひざし」などと見比べてみると面白いかも。

磯江毅 - Wikipedia」によると、「磯江毅(いそえ つよし、1954年-2007年 )は、日本の現代リアリズム絵画を代表する画家」で、「高校卒業後、スペインに渡り、アカデミア・ペーニャや王立美術学校に学ぶ」とある。

 やはり、注目すべきは、スペイン国内で注目されたのち、「マドリッドやサラゴサ、東京などで個展を開催。1991年にはスペイン現代リアリズム展で「マドリッド・リアリズムの画家」として紹介される」という点だろうか。

 もう何年前になるか…、確か、1992年の春に国立西洋美術館にて開催された「スペイン・リアリズムの美-静物画の世界」だったと思うのだが、当時、抽象表現主義や生の芸術(アール・ブリュット)の作品展を追いかけていた小生に、リアリズムの美を追う潮流が(スペインを中心に)厳然とあることを思い知らされたのだった。

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← 磯江毅「深い眠り」(100×182 1994-95) (画像は、「磯江 毅 Gustavo Isoe 1982-2007  彩鳳堂画廊 アートインデックスネット art-index.net」より。) 見る人が見ると、ワイエスの「ヘルガ」シリーズを連想する…かもしれない。「蒼穹の回廊書評 2002/3/31 「写実・レアリスム絵画の現在」 奈良県立美術館」参照。

 ピカソにしてもダリにしても、リアルな表現力を極めつくしての彼らの世界なのである。
 が、最後までリアリズムに徹する画家がいることは、軌道修正というわけではないが、美の世界をもっと幅広く、且つ丁寧にフォローすべきことを教えられたような気持ちだった。

 スペイン・リアリズムの滔滔たる潮流を知ったのとほぼ時を同じくして、アメリカのスーパーリアリズムの世界をも知った。
 現実を、自然を、静物を、人物をリアルに描く。この当たり前すぎるかのような営為にも可能性がまだまだあるのだ。
 特に肉眼で見ることを徹底しての表現者には。
 映像(写真であれビデオであれ映画であれ)全盛の世にあって、どんな表現媒体であっても、行き着くところは人の目であり感性であり、知性であり、触感などの感覚以外にありえない。

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→ 「スペイン・リアリズムの美: 静物画の世界」(1992年 国立西洋美術館) 小生が現代におけるリアリズム表現の営為を知った展覧会(の図録)。アントニオ・ロペス・ガルシアを知ったのも、この展覧会だったはず。…と思っていたら、勘違いで、「スペイン美術はいま―マドリード・リアリズムの輝き」(日本橋高島屋)こそが出会いの場だった。当然、この展覧会で磯江毅の存在に気づいたはず…なのである…が…。

 それにしても、美術の世界にも疎い小生なのだが、磯江毅が「2007年、呼吸不全のため53歳で死去」とは、彼の存在や営為を知ったのが遅きに失した感がある。
 彼は、生れは小生と同じ1954年。昨年まで(内実の濃淡は別にして)同じ時代を生きていたのである。

 53歳での逝去は夭逝とは言いかねるが、前途や可能性を思うと、やはり夭逝に違いない。

「彼を美の同士と思」うという、彩鳳堂画廊の(?)本庄俊男氏の言葉が痛々しい:
磯江 毅 Gustavo Isoe 1982-2007  彩鳳堂画廊 アートインデックスネット art-index.net

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← 図録「スペイン美術はいま-マドリード・リアリズムの輝き」(日本橋高島屋) この小文を書いている最中に思い出したのだが、この展覧会にて、磯江毅(の作品)を知ったはず…なのである! (画像は、「彩鳳堂画廊(秋の東京滞在記(16))」より。) この図録は昨年末まで所蔵していたのだが、引越し費用を稼ぐため、泣く泣く売却。

 亡くなられた方への贈る言葉も痛切だが、ある意味で、生前の彼の、明日の死を知らない(はずの)言葉はもっと胸に迫るものがある。
磯江毅さんの展覧会に行く (内田樹の研究室)」は、2007年04月24日の内田樹の日記だが、この日記での内田樹の文章も興味深いが、磯江毅の「写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」といった言も意味深である。
 その意味合いは、上掲の日記を読んでもらいたい。
 
 ただ、以下の内田樹の教える点は、読み逃したくない:

「静物」のことをフランス語ではnature morte と言う。「死んだ自然」である。
写実画は「死んだ自然」を描く。

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→ 磯江毅「薔薇と緑青」(27×32 2002) (画像は、「磯江 毅 Gustavo Isoe 1982-2007  彩鳳堂画廊 アートインデックスネット art-index.net」より。)

 内田樹はカタログでの磯江画伯自身の言葉を紹介してくれている:

 対象物を正確に表現するためには時間がかかります。有機物は腐り、モデルは動き、無機物にも埃がたまり、時の経過を表します。更に作家自身の感情も常に揺れ動いています。現実は流動していると言う事を体感するのは肉眼だからです。そんな時間を含んだ揺れる現実を体感することがリアリティー(=実感)に触れるという事ではないでしょうか。

 今更、一期一会なんて言うのも気恥ずかしいが、どんな路傍の有り触れたモノ(ヒト)であっても、部屋の中の何かであっても、それこそ、腐ることのありえないモノであって、それを前にし目にする人間は、掛け替えのない一瞬一瞬を生きている。
 決して繰り返しもやり直しも叶わない、生きられる時間、たった一度限りの砂時計の砂の時を生きているのであって、昨日、見た花瓶が今日も同じように見えるとは限らないのだ。

 その試みに終わりがあるとは思えない。

 …だから、きっと、あの世でもリアルへの永久(とわ)なる営為が続けられているに違いない。

 既に何度もリンクを示しているが、彼のプロフィールを知るには、下記がとってもいい。作品の数々をごろうじろ:
磯江 毅 Gustavo Isoe

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← 磯江毅「鳥の巣」(50×49.5 1989) (画像は、「磯江 毅 Gustavo Isoe 1982-2007  彩鳳堂画廊 アートインデックスネット art-index.net」より。)

絵ノローグ 磯江先生の思い出
(磯江先生の思い出話も興味深いが、「絵の具と安全性」の項も必読! 腎臓癌での死との関連も!)
蒼穹の回廊書評 2002/3/31 「写実・レアリスム絵画の現在」 奈良県立美術館

                    (08/11/01着手 08/12/17加筆)

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コメント

磯江毅。この方が53歳で逝ってしまうなんてもったいない。あまりに勿体ないと思いました。「時間が塗り込められている」というのもすごいですねぇ。この人が絵を描く姿はそのまま映画か小説になりそうです。
ところで母上様父上様のお加減はいかがですか。あちらの日記が止まっているので(あたし自身はさぼってばかりいるくせにね)お忙しいのだろうとは思ったのですが、ちょっと心配になりまして。やいっちさんご自身もどうぞご自愛くださいね。

投稿: ミメイ | 2008/12/18 01:50

ミメイ さん

磯江毅という画家の存在に、その凄さに気づくのが遅すぎた。
せめて一年、早ければ生前の営為に同時代を生きた者として接することができたはずなのに。

リアリズム。写真や映画が当たり前にある中でのリアルな表現へのこだわりと探求。

詰まるところは、人間が肉眼で、その都度の生きた瞬間瞬間に対峙し見つめ続ける、その極めて人間的な営為が画布に塗り籠められている。
だから、技術的な完成度も求められるけれど、リアルな表現の中で独自性を発揮するってのも、至難の業だったろうと思われます。

あちらの日記。どうしても窮屈な気がして。
最初はアチラでメモ的な日記を書き、後日、ブログにもっと書き込む形でアップしていました。

ついで、ブログに書いて、そのダイジェスト版をあちらに。

でも、やっぱり面倒だし、小生としてはブログがメインの活動の場なので、あちらはメッセージを書いたり、知り合った方々の近況を知る場と思って覗いています。

もっとも、どこで気が変わるか分からないけどね。


母は、容態は安定しています。
食事も取っているし、自分で寝起きが出来る。
父の怪我はもう、ほとんど目立たなくなってます。
転倒で壊れた眼鏡も新調して、ちょっとご機嫌って感じですよ。
ご心配、お掛けしました。

自身については、身近に愚痴を言う相手も居らず、このブログでの愚痴日記で憂さを晴らしています?!

投稿: やいっち | 2008/12/18 10:08

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