昇斎一景…人間味たっぷりの浮世絵・錦絵を愛でる
どういった経緯でその名、その存在を知ったのか覚えていないのだが、今日は昇斎一景(しょうさい いっけい)を採り上げてみる。
東京在住の時にも居住していた、あるいは仕事や遊び・行楽などで訪れた土地の昔日の姿を描いている作家、そしてその人の絵を漫然とだが、眺めて楽しんできた。
まして、東京を離れてしまった今となると、一層、東京のことが慕わしいし懐かしい。
そうした浮世絵師の中の一人ということで、昇斎一景の作品を眺めてみたいのである。
↑ 「鉄道錦絵 ~横浜・高輪編~」(サイズ380x740(mm) 昇斎一景 明治5年) (画像は、「ミュージアムレポート|交通科学博物館 鉄道錦絵 ~横浜・高輪編~」より。) 「この錦絵では赤い雲のようなものが画面を上下に分割し、下段に高輪付近を、上段には新橋駅付近を描いてい」るという。小生は高輪で約十年居住した。
彼の作品(画像)はネットでも案外と多く見ることができる。
それでいて、昇斎一景の人となりについては、ネットで得られる情報の量や質は彼の画業に相応しいとは言いかねる。
昇斎一景は、「(歌川)廣景の後の名で、同一人物ではないかとの説もある」ほどで、生没年不詳であり、ほとんど謎の人物に近いようだ。
(尤も、小生は未見だが、「昇斎一景 : 明治初期東京を描く」(町田市立博物館編 1993年)といった図録があるらしいので、あるいはより詳しい情報に接することができるかもしれない。)
↑ 昇斎一景「六合陸蒸気車鉄道之全図」(六郷蒸気車鉄道之図) (画像は、「ref-5 JR六郷橋梁の歴史」より。確か、何かの情報を渉猟していて、偶然、この頁に出会ったのだった。この頁には、JR六郷橋梁の歴史が詳しく記されている。明治初期の頃の懐かしい写真も載っている。) 「六郷かわらばん 六郷の渡し」も六郷の今昔を知るに、非常に参考になる。80年代の半ばから後半にかけての頃、バイクにゴルフクラブを数本、括りつけ六郷へ。六郷土手駅前の喫茶店でモーニングセットの珈琲を喫して一服後、六郷の河原でゴルフの打ちっぱなしに興じたものだった。
→ 「東京名所四十八景 京はし」 (画像は、「江戸東京博物館 昇斎一景 一覧」より。) 「銀座遺産 Vol.01 銀座通りの誕生 三枝進」によると、「江戸時代の「銀座通り」とは、どの程度の道だったのだろうか。たとえば、延享元年(1744年)発行の「延享沽券図」によると、道路の幅はほぼ8間(約14.5メートル)で、現在の銀座通りの半分程度だった。もちろん舗装などはされていない。こうした質素な道路の状況は幕末から明治初年まで続いていたらしく、明治4年(1871年)に出た昇斎一景(生没年不詳)の錦絵「東京名所四十八景・京はし」には、銀座の通りを農夫たちが京橋に向かってのんびりと牛を追ってゆく、まるで田舎の風景のような銀座通りと、粗末な家並みが描かれていて、かなり衝撃的な場面である」。
しかしながら、「江戸百 その14-牛町」によると、「牛車については、藤岡屋が、牛車と幕府の奥医師のけんかを目ざとく取材しています。そこから、牛車が往来を闊歩していた様子が浮かんできます。この事件は、安政4年閏5月に、南伝馬町二丁目で起きたので、すぐ後で見るように、広重が、家にいれば喧嘩の報を聞いて飛び出していって見に行けるほどの距離でした。医師は、お城から帰宅する途中、南伝馬町二丁目で歩みの遅い牛車に行く手をさえぎられました。怒った医師は、牛車を曳いていた者を捉らえて、この場所から数ブロック先の因幡町の屋敷へ連れていって杖で打ちすえました。そのため、牛たちは往来に放っておかれたままになり、道をふさいで大騒ぎになった」とのこと。その上で、「明治になって作品を残した昇斎一景は、この事件をよく記憶していたのでしょう。安政4年から14年後の明治4年になって自分の連作「東京名所四十八景」の「京はし」に牛の大群を描いています。京橋と言えば牛の記憶が強烈に残っていたものと思われます」と続く。あるいは、明治初期のリアルな光景ではなく、15年前の事件に由来する<名所>を意識しての絵を創作したということなのか。
← 「東京名所三十六戯撰 元昌平坂博覧舎」 (画像は、「江戸東京博物館 昇斎一景 一覧」より。) 「新発見!合わせ絵馬in「湯島聖堂」」によると、「昇斎一景(生没年不詳)が描いたもので、明治の滑稽味をおびた風俗画です。見物人が鯱を見ておどろいている様子がリアルに表現されており、この絵は当時たいへん評判になったそうです。明治5年の作品です」。
→ 昇斎一景「東京名所三十六戯撰 芝飯倉(とうきょうめいしょさんじゅうろくぎせん・しばいいぐら)」(明治5年(1872)3月) (画像は、「港区ゆかりの人物データベースサイト 戯画」より。) この近辺は、車で散々走り回ったものだ。
「ミュージアムレポート|交通科学博物館 鉄道錦絵 ~横浜・高輪編~」:
昇斎一景(しょうさい いっけい)
生没年不詳
はじめ景昇斎と号し、のちに昇斎を使用した。人物表現に滑稽味が強く感じられるのが特徴。また画風が三代歌川広重に似ているところから、初代広重の弟子広景の後の名とする説もあるが、詳細は不明。明治4~5年に作品がみられ、その画風は京都四条派の影響が強く、鉄道錦絵にも伝統的な名所図がとりいれられている。
← 昇斎一景「東京名所三十六戯撰 芝口橋(とうきょうめいしょさんじゅうろくぎせん・しばぐちばし)」(明治5年(1872)3月) (画像は、「港区ゆかりの人物データベースサイト 戯画」より。) 新橋も車でどれほど走ったことか。プライベートでも嫌な思い出がある。
「港区ゆかりの人物データベースサイト 戯画」によると、「浮世絵というと、美人画、名所絵、役者絵などがすぐに浮かびますが、現代のマンガに通じるような人々のこっけいな姿を描いた「戯画」も少なくありません」とし、その中の一人として、「明治になってから活躍する昇斎一景は、代表作「東京名所三十六戯撰」で戯画を描いています」とある。
→ 昇斎一景「東京名所三十六戯撰 高なわ(とうきょうめいしょさんじゅうろくぎせん・たかなわ)」(明治5年(1872)3月) (画像は、「港区ゆかりの人物データベースサイト 戯画」より。) 上記したように高輪で十年ほど暮らした。高輪の白金寄りの家から小高い坂を登って降りていくと国道がある。この絵はその国道の何処かなのだろう。
昇斎一景について、小一時間ほどネット検索で情報を集めてみたが、あまりはかばかしくない。
もともと情報が乏しいのか、人気がないのか。
昇斎一景の絵は、写実など何するものぞとばかりに、剽軽というか滑稽味があり、すこぶる人間的で親しみが湧く。
端正で美しい、破綻の少ない絵もいいけれど、そもそも人間って、何かしら欠点を抱えているものだし、喧嘩や人間同士のトラブルなど、あれこれあっての人間だということを思うと、昇斎一景の絵は当時にあってはユニークだし、絵に彼の主張があるようで、とても好ましい。
参考:
「野田市立図書館所蔵資料紹介 東錦絵(東京名所三十六戯撰,新聞錦絵)」
「TOKYO DIGITAL MUSEUM 江戸東京博物館」
「港区ゆかりの人物データベースサイト 戯画」
「昇斎一景 東京名所四十八景」(東京名所四十八景の画像全てを見ることができる。)
「ref-5 JR六郷橋梁の歴史」
「東京名所四十八景 霞かせき」
「江戸東京博物館 昇斎一景 一覧」(58点の画像を観ることができる。)
「Carp > 鯉の芸術と民芸品 > 浮世絵(1)」
「昇斎一景 : 明治初期東京を描く」(町田市立博物館編 1993年) (← 図録)
(08/08/24着手 08/10/14作)
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