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2008/10/16

宝泉寺蔵地獄極楽図から我が地獄の夢へ

 過日、立川昭二著の『生と死の美術館』(岩波書店)を読んでいたら、「宝泉寺蔵地獄極楽図」のうちの一つに出会った。
 極楽はともかく地獄(図)には小生は一方ならぬ馴染み(思い出)がある。
 残念ながら上掲の本に掲げてある絵図はネットでは見出せなかった。
 それでも、この「宝泉寺蔵地獄極楽図」をめぐって、せめて多少のことでもメモしておきたい。

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← 『宝泉寺蔵地獄極楽図(部分)』1853年 (画像は、「週刊 『フクダデスガ』火車に亡者を載せて白き鬼引く」より。)。『赤光』所収の「白き華しろくかがやき赤き華あかき 光を放ちゐるところ」の歌は、小さい頃宝泉寺で見た「地獄極楽図」を詠んだものだと言われてい」るという(「上山市公式ホームページ 故郷をこよなく愛した歌人」より。 「高橋富雄 「北国のこころ」」参照)。

築地本願寺新報/2004年9月 地獄絵に代るものは  東京都 一音寺 松本 順昭

人の世に嘘をつきけるもろもろの
 亡者の舌を抜き居るところ

にんげんは牛馬となり岩負ひて
 牛頭馬頭どもの追ひ行くところ

右は斎藤茂吉第一歌集『赤光』の「地獄極楽図」連作十一首中の短歌で、茂吉最初期の作品。
茂吉の生まれは山形県上山。生家の隣は宝泉寺という寺だった。その寺で、毎年正月と盆の二回地獄図の掛軸が懸けられ、絵解きがされた。茂吉はほぼ中学に入る頃まで故郷で過し、地獄図を住職の解説で繰り返し眺めた、その記憶に基づいて、東京に出て八年後の旧制高校生の時に、この連作を詠んだ。友人への書簡によれば、明治三十八年五月十日の夜の作ということになる。

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→ 「宝泉寺蔵地獄極楽図」(「箱書きには「十王軸物拾幅」とあり、一八五三年(嘉永六年)の年記がある。(2008年4月27日付日経新聞朝刊17面)」) (この冒頭の絵の拡大画像は、「火車の資料(近世)」より。)

堀田建設(株)ホームページ-伊予細見」には、茂吉と少年の頃に見た「宝泉寺蔵地獄極楽図」のこと、彼が後年、作った歌のことなどが詳しく書いてある。
「正岡子規の 『竹の里歌』との出合いが機縁となって作歌を始めた茂吉は、子規の歌の模倣によって故郷の寺で見た地獄極楽の掛け図を自らの記憶に止めようとしたのであった」として:

 青年茂吉は『竹の里歌』の中の「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇(ぞうへび)どもの泣き居るところ」というお釈迦様の「涅槃(ねはん)図」を見て子規が作った歌などに強い影響を受けた。そして、子供の頃に山形県上山の生家の隣にある宝泉寺で見た「地獄極楽図」の掛図を思い出してこれらの歌を詠んだのである。茂吉は開成中学の同窓生で子規派の俳句を作る文学の友、渡辺幸造にあてた書簡に「故先生(子規のこと)の……「象蛇どもの泣き居るところ」の如きは古今になき姿にて誠に気に入り恐れ入り小生もマネいたしたる次第に候」とまで書いている。

Touhoku

← 錦仁著『東北の地獄絵─死と再生』(三弥井民俗選書 三弥井書店)

 斎藤茂吉の第1歌集、『赤光』に見られる「地獄極楽図」という連作がある。既にこの日記にて三首ほど彼の歌を掲げている。

 さらに何首かを「堀田建設(株)ホームページ-伊予細見」から再掲する:

 飯(いひ)の中ゆとろとろと上る炎(ほのお)見て 
 ほそき炎口(えんく)のおどろくところ

 赤き池にひとりぼっちの真裸の
 をんな亡者の泣きゐるところ

 いろいろの色の鬼ども集りて
 蓮(はちす)の華にゆびさすところ

 罪計(つみはかり)涙流してゐる亡者つみを
 計れば巌(いわほ)より重き

 ゐるものは皆ありがたき
 顔をして雲ゆらゆらと
 下り来るところ


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→ 立山曼荼羅『相真坊B本』(個人蔵) 芦峅寺系 形態:紙本4幅 法量:150.0cm×216.5cm(内寸) (画像は、「立山曼荼羅の解説 富山県[立山博物館]学芸員 福江 充」より。「立山信仰と立山曼荼羅の概説 福江 充」なる頁が充実している。)

(本稿では、斎藤茂吉のことには深入りしない。)

 小生にも幼い頃に見た地獄絵には相当に悩まされた記憶がある。
 後年になって何かの折に思い出したというのではなく、特に幼年期の頃、地獄絵に、あるいは脳裏に焼き付けられてしまった地獄の様相に苦しめられ、夢の中で何度も地獄の辛酸を舐めたものだった。
 その思い出の一端は、たとえば下記に書いた:
刀葉林の夢

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← 福江 充【著】 『立山曼荼羅―絵解きと信仰の世界』((京都)法蔵館) 「詳細」によると、「富士山・白山とともに日本三名山と呼ばれる立山。その雄大な自然と古くから人々に知られた地獄信仰は、多くの日本人を惹きつけてきた。先人が長い時間をかけて形成してきたさまざまな思想・宗教が凝集された立山曼荼羅を読み解き、その信仰世界を明らかにする」とか。福江充氏には、関連する著書として、 『立山信仰と立山曼荼羅 ― 芦峅寺衆徒の勧進活動 日本宗教民俗学叢書』(岩田書院)もある。これについては、「福江 充著 『立山信仰と立山曼陀羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-』 評者:高達 奈緒美」なる書評が参考になる。


 ここでは、「地獄絵をよむ…美と苦と快と」から、幼い頃の地獄体験の思い出を転記しておく:

(前略)「立山曼荼羅の絵図は、小生には何故か馴染み深い。ガキの頃に、何かの折に見せられ、初心な小生は、絵図さながらの世界に夢の中で幾度も<遭遇し体験>したものだった」という一文を引用している。何処で見たのだろう。近くのお寺での集まりでか。誰かに何かの絵を見せられた? 縁日か何かで、幽霊画などと共に立山の地獄絵を売られていた? それとも、こっそりと覗き見た図鑑で発見したのだったろうか。
 いずれにしても、小生は小学校にあがる前から、地獄の中に居る夢に魘されて目が覚める日々が続いた。毎日のように、紅蓮に燃え上がる焔の中を逃げ惑い、刃の林立する真っ赤に焼けた地を走り回り、そうして、夢の最後の場面に出てくるのは、いつも同じだった。
 顔見知りなのか、赤の他人なのか今となっては(夢に見ていた当時も定かでなかったような)分からない男が、地獄の谷山の何処かに蹲り、足元で何かやっている。
 恐る恐る覗いて見ると、男の脛(すね)だったか、脹脛(ふくらはぎ)だったかの一部の肉がごっそりと殺ぎ落とされている。
 驚いたことに、肉片は男の手にあり、男はその肉をなんとか脹脛(脛)に宛がっているではないか。そんなことしたって、無駄じゃんと思っていると、何故か、とりあえず肉片はもとあった場所に引っ付く。そして男はその場を立ち去って…。
 夢はその場面で終わる。地獄の世界とはおよそ異質な、どこか滑稽な、しかし本人は必死なような、それでいてさも手馴れたような手当て振り…。
 小生自身は、そんな大怪我を足に負ったことはなかったと思うのだが。

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↑ 「立山曼荼羅 吉祥坊本(血の池地獄)〔個人所蔵〕」 (画像は、「立山信仰と立山曼荼羅の概説 福江 充」より。)

参考:
羽州街道 ゆけむり郷愁写真館 茂吉の面影 足乳根の母
斎藤茂吉 - Wikipedia
歴史ドラマを訪ねて 上山
堀田建設(株)ホームページ-伊予細見
立山信仰と立山曼荼羅の概説


関連拙稿:
刀葉林の夢
三途の川と賽の河原と
三途の川のこと
地獄絵をよむ…美と苦と快と
富山……佐伯有頼そして立山
善知鳥と立山と

                     (08/10/09作 08/10/16加筆)

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